延暦21年(802)、征夷大将軍坂上田村麻呂は、鎮守府胆沢城を築き、城内に鎮守府八幡宮神社、城輪(きのわ)に石手堰(いわでい)神社を官寺として建立、当山薬師寺はその神宮寺的な存在となった。
・参加者である男子は祭の1週間前から精進潔斎に務めなければならず、 肉・魚・ニラやニンニクのような臭いの強い食物、 或いはそれらを調理した火を通した食物を口にすることが禁じられる。・午後10時に鳴らされる梵鐘の音を合図に祭が始まる。浄飯米(おはんねり)を 持った祈願者の男女が水垢離(みずごり)をした後 「ジャッソー、ジョヤサ」(邪(ジャ)を正(ソ)すの略)と掛け声を発しながら 本堂を三巡し、五穀豊穣を始めとする幸福を祈願する。・午後11時30分より、全裸に下帯のみを身に付けた男たちが 行列を為して福物の柴燈木(ひたき)と呼ばれる松明を 掲げながら行進。午前2時、本堂で数え7歳の男児2人が扮する 鬼子が本堂に入り福物の餅を境内にまいた後、再び境内に戻る。・午前5時、鬼子が本堂に再び入った後「袋出し」の男5~6名が「蘇民袋」と呼ばれる麻袋を抱えて現れる。 全裸の親方が小刀で蘇民袋を切り裂き、福物の小間木(こまき)を境内の 男女が拾う一方で柴燈木登りに参加した男たちは引き裂かれた蘇民袋を激しく奪い合う。 最終的に、蘇民袋の首にいちばん近い部分を持っていた者が その年の取主(とりぬし)となり、その年は東西どちらの土地が豊作となるかが決まる。