然るを訊く
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    [20110630]

    かつての
    弥高寺・太平寺・長尾寺・観音寺
    伊吹山を中心とした寺院を巡った


    太平観音堂
    三原モーターズという自動車工場が
    現在の保存会の代表をやっており
    自動車工場に対して拝観の願いをする




    国道沿いにある三原モータースから
    伊吹山に向かうように細い路地を
    300mほど進んだところに綺麗な建物が
    現在、太平寺観音堂と称し
    円空が刻んだ十一面観音像が坐する



    像高180cmの十一面観音像は
    円空58歳の作

    円空は伊吹山で修行をしたと伝わっている



    円満の笑みを浮かべ
    お腹がふっくらしているあたりは
    どうしても丹波の達身寺の像たちを
    思い浮かべてしまう

    ※達身寺 十一面観音※



    衣紋というよりもひとつひとつの
    ピースで構成されたような造りで
    円空特有のゴツゴツとした
    印象を与えてくれた



    白洲正子は

    “かって伊吹村で円空作の十一面観音に
        出会った時の感動が私には忘れられない”


    “それまで私は、円空には人がいう程
         興味を覚えないがこの像だけは印象に残っている”


    と残している


    この太平寺観音堂の周辺の集落は
    伊吹山の中腹から昭和39年に十一面観音像とともに
    集団移転し鍵をあけてくださった二人の男性は
    その末裔だという


    東博で2006年に開催された仏像展では
    全国各地から円空が召喚されて、
    その光景にビックリしたのだという


    おそらく“うちと同じ顔の観音さんってこんなにいるんだ”
    って勝手に思ってる(笑)


    太平寺観音堂から伊吹山の裾を沿うように
    15分ほど車を走らせた山の中腹にある長尾寺を訪ねたが
    崖に集落があるようなところで
    何度も車を立ち往生しながら

    おそろしく細い路地を
    山に向かって進んでいった

    ここは運転技術がないものが訪問するのは難儀だろう
    自分も友人の力を借りながらなんとかたどり着いた

    山の上にある毘沙門堂では
    二体の毘沙門天が並んでいた




    ともに平安中期以前に遡る像であり
    住職の奥さまの話ではこの地域に仏師集団がいたことが
    わかっており、優れた造像技術と生産拠点を
    保有したという






    ここも太平寺と同じくもともとは伊吹山の中腹に毘沙門堂を建て
    そこに安置をしていたが崖崩れなどの被害が懸念されることから
    下の長尾寺に毘沙門堂を建てて保存する





    住職と奥様の話でかつての毘沙門堂にも
    いくつか仏像があるという話を聞いた我々一行は
    お堂に向けて山を登っていった



    はじめは集落への山の斜面を駆け下る水の流れ
    伊吹山の青々とした緑に紫を刺す紫陽花が咲き乱れる
    景色が美しかった







    男子が前を歩き、女子たちは奥さんが先導する




    近くの学校で教師をやっていた石マニアの先生が
    描いたとされる石像が我々を山へ誘うなか
    友人から“うわ、喰われた!”という声



    近づくと見たことのない生物 ヒルが友人の足に
    食いついていた!


    足から引き剥がそうとも強烈に食らいつき
    ゴムのような体がびよーんと伸びるだけだった


    ようやくヒルを離すと、そこにはジワっと赤い血液が
    浮かびあがる



    うわーーーなんて言って、あたりを見渡すと
    至るところにシャクトリ虫のようなヒルがうごめき
    我々に向けて集まってくる



    やばい!やばい!ってことになりパニックになり
    奥さんからどうする?!下山する?!と聞かれたが
    せっかくここまで来たなら!ということで
    先を急いだ


    迫り来る恐怖に怯えながら
    なんとかかつての毘沙門堂にたどり着く



    毘沙門堂の中には役行者像などがいる中
    お堂の右側にあった破損佛に全員の目が奪われた






    これは、なんだろう?!得体の知れない像は
    この堂の下から工事業者が見つけてきたものだという



    帰り道もヒルとの格闘


    今度はヒルが上から降ってきた


    ある女子は山道をまるで山猿の如く
    一人走り抜けていき、後ろで見ていた自分は爆笑だった(笑)



    命からがらw長尾寺に戻り
    庫裏で住職と奥様から苦労話などを伺う






    ほうじ茶を飲みながら
    足に感じた違和感・・・



    あ。。。 ヒル!!!!




    自分の足にしっかり食らいついて
    血液を啜っている真っ最中だった



    簡単に引きちぎれ
    奥さんの塩攻撃でみるみる縮んでいく



    “足元すくわれる”とはよく言いますが
    ここでは油断すると“足元吸われる”わけですわ。。






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    [20110624]

    愛知県を北上し岐阜市内に入る
    美江寺観音』という呼称は
    岐阜市内の人にとってはわりとポピュラーな名前で
    定着しているようだ

    境内に車を止めご住職に本堂へ案内された
    お寺の縁起を伺って、本堂の奥にある
    収蔵庫にて秘仏の十一面観音像を拝する

    頂上部からオレンジ色のライトに照らされ
    像高175cmあまりの本尊十一面観音像が
    暗闇に浮かび上がる




    地方作の脱活乾漆造の登録仏像としては
    この美江寺に伝わる本尊と
    香川県さぬき市願興寺に伝わる
    聖観音坐像の二体のみである




    自分は香川県の像を拝したことがないのだが
    写真で見る限り洗練された中央作の仏像であることが
    確認できる

    一方本尊はというと顎を突き出し見下ろすことなく
    顔はまっすぐ正面を向いている

    個人的関心はお腹まわりの乾漆仏らしい
    生々しい表現

    もちろん触れることはできないのだが
    ツルっとしているワケでもなく、木肌のように
    ざらっともしていない、、

    乾漆仏でなければなかなか
    表現できないであろう質感をもっていた

    住職にお話を訊くと頭上の化仏は修理の際に
    誤って除かれてしまい、
    現在は7面になってしまっているのだという

    また名張の仏師が携わったのだという
    名張は室生寺の近くであり個性豊かな仏像が
    量産されたと考えやすい地域ではある



    化仏の中まで乾漆仏となっていると話をされ
    乾漆仏とは徹底的にやるんだな、と関心した

    本堂の中央には御前立としての像も立っているが
    こちらの像も鎌倉初期にまで遡るであろう
    優美な像である

    生々しい息づかいが感じられそうな
    十一面観音像はとても印象に残った


    wikipedia

    美江寺(みえじ)は、岐阜県岐阜市にある天台宗の寺院である。山号は大日山。
    院号は観昌院。通称「美江寺観音」。正式名称より通称で呼ばれることが多い。本尊は十一面観音。

    美濃三十三観音霊場第十八番札所。岐阜観音札所第三番札所。東海白寿三十三観音第三十一番札所。

    瑞穂市美江寺については、美江寺宿を参照。

    『新撰美濃志』の伝えるところによれば、717年(養老元年・霊亀3年)、元正天皇勅願により、
    伊賀国名張郡の伊賀寺(坐光寺)の十一面観音を美濃国に移したのが当寺の起源であるという。
    この十一面観音を本尊として、719年(養老3年)、美濃国本巣郡十六条(後の美江寺村、現瑞穂市美江寺)に
    美江寺が創建され、開山は勤操(ごんそう、東大寺別当)、竣工は723年(養老7年)であったという。

    その後、中世までの沿革は判然としないが、土岐氏の帰依を受け、1506年(永正3年)、
    土岐成頼が伽藍を修造したという。現在地に移転したのは1549年(天文8年)、斎藤道三の
    稲葉山城の築城時ともいい、織田信長が移転させたという説もある。
    稲葉山城の南西に位置し、裏鬼門を守護するという。

    1871年(明治4年)、政府による寺領上知令により寺領を失う。1945年(昭和20年)7月には、
    岐阜空襲により伽藍を焼失。その後、1952年(昭和27年)に阿弥陀堂(仮本堂)が再建され、
    1955年(昭和30年)に本堂、1986年(昭和61年)に仁王門がそれぞれ再建されている。




    [20110623]

    3つの寺院を兼務されているという
    非常に多忙な中、ご住職がご都合をつけて
    くださり念願叶って訪問することができた



    『あの山の中腹にもともと建てられたんです』
    と住職が指した方向を見ると青々とした
    山並みを確認することができた

    寺伝によると信長の焼き討ちにあったことから
    現在の場所に移築したのだという

    本堂の裏側にある収蔵庫の扉が開かれ
    収蔵庫の中央に聖観音立像が現れた


    [参照]岐阜県

    目をくっと閉じ、薄く横に伸びた唇は
    男性的な表情ながら艶美さも感じてしまう

    自分が知っていた写真よりも
    目の前にある観音像は少しばかり
    小さく感じたが
    切れ味鋭い衣紋と一木のダイナミズムは
    威圧というべきか閃光を放つような
    眩しさをも感じさせる

    脈々と流れる血がそこに存在する
    生々しい像、、聖観音像に見惚れていると
    そんな気分になってきた



    wikipedia

    山号    篠尾山
    宗派    天台宗
    本尊    聖観音菩薩(石上観音)
    創建年    伝・790年(延暦9年)
    開基    伝・最澄
    中興年    1658年(万治元年)


    円興寺(えんこうじ)は、岐阜県大垣市にある天台宗の寺院である。山号は篠尾山。
    本尊は木造聖観音菩薩立像(国の重要文化財)。
    西美濃三十三霊場第三十二札場。
    かつては山頂に存在していた。旧円興寺跡地には礎石が残り、
    源朝長の墓、源義朝、源義平の供養塔などが残る。
    現在の円興寺には源朝長の位牌や関わる遺品がある。

    沿革 [編集]

    寺伝によれば、790年(延暦9年)、美濃国不破郡青墓(現大垣市青墓町)の大炊氏に懇願され、最澄が開山したという。
    1574年(天正2年)、織田信長により焼き討ちにあい、全てを焼失する。この際本尊が勝手に動き、
    石の上へ難を逃れたという。このことから、本尊を石上観音と呼ぶ。
    1658年(万治元年)に再興され、現在地へ移転する。




    [20110622]

    ことしの山はじめ



    去年よりも雪解けが遅くて
    装備が甘かったことを反省。。

    目標にしていた旭岳まで登れず。。



    でも山のうえでの食事は忘れず


    うんまぃ★


    [20110621]

    東海道新幹線に沿うように
    西を目指す

    尾張国分寺だだっ広い駐車場は近くの
    矢合観音の参拝者のために開かれているが
    当山訪問が目的であれば無料であるという


    駐車場のご住職の奥様が
    広い駐車場を駆けて
    息を切らしながら
    収蔵庫の鍵をあけてくださった


    国の重要文化財指定の
    木造釈迦如来坐像が現れる。

    玉眼で頂きに冠を乗せ
    いわゆる宝冠釈迦如来坐像と
    言われる像である

     


    おちょぼ口であり稚児の様相も感じる
    言葉が適切ではないかもしれないが七五三を迎えるべく
    両親から着物を着せてもらっった幼女のような像である


    本山にはもう一体の釈迦如来像も伝来しているが
    こちらは男性的な像でありさきほどの像が
    お姉ちゃんであるならば弟のような像である



    仏教の教義を厳しく護るようなメッセージ性のようなものも
    感じることができる


    老婆のような熱田大宮司夫妻坐像も
    珍しく神秘的な力を放っているように感じた



    朝方の曇り空は徐々に除かれていき
    このころにはすっかり晴れた
    五月晴れ(訪問は六月でしたが・・)の青空が広がった


    wikipedia 

    尾張国分寺(おわりこくぶんじ)は、
    愛知県稲沢市にある臨済宗妙心寺派の寺院である。山号は鈴置山。

    本尊は薬師如来。平安時代の僧侶、空也が出家した寺と言われている。
    現在の国分寺は1886年(明治19年)に円興寺を改称した寺院。
    旧尾張国分寺跡は、現在の国分寺の南、約1kmの畑の中にある。


    沿革

    741年(天平13年)、聖武天皇により国分寺建立の詔(みことのり)が発せられる。

    884年(元慶8年)、火災で焼失。その後再興することなく、国分寺の機能は

    愛智郡の願興寺に移転したという。これが事実とすると、空也が出家したのは、この旧尾張国分寺でなく願興寺であることになる。

    1385年(永和元年)、宗興(中島蔵人の次男。

    妙興寺を建立した僧侶)により、旧尾張国分寺跡地に、

    尾張国分寺堂を建立する。後に尾張国分寺堂は円興寺の境内に移転する。

    尾張国分寺堂があることより1886年(明治19年)に円興寺を改称。

    鈴置寺 国分寺となる。

     

    尾張国分寺からさらに新幹線の高架下を
    北上すること車でわずか3分ほどに
    稲沢市のもう一つの安楽寺

    臨済宗妙心寺派の通称、舟橋安楽寺を訪問した


    本堂から須弥壇とは反対方向の
    参道の緑道が緑色に眩しく輝いていた

    本堂には二体の半丈六仏が
    中央の厨子を挟んでいた

    釈迦如来はでっぷりとした量感のある像で
    定朝様式を踏襲している
    かつては漆箔が貼られていたであろう本尊であるが
    現在は剥がれ下地が露呈している
    全体感としてはやや誇張される表現も見え
    いわゆる地方作の定朝様と感じた




    一方阿弥陀如来も釈迦如来と双子なのでは?!という
    ほどにそっくりの像である



    彼らをみていると如来ながら中央の
    秘仏である十一面観音像をまもる
    脇侍のようにも思える

    なんとも豪華な三尊である

    そして厨子のすぐ近くには
    像高84cmの兜跋毘沙門天像は
    コミカルな表情で双子の如来像に
    囲まれると子供のようにも感じる



    本堂は老朽化が進んで維持できなくなり
    コンクリートの収蔵庫の造設が必要だったのだが
    前住職の可能な限りお堂の様式は残してもらいたい、
    という願いにより、本堂の中に入ると
    木の香りが漂う温かさを残している

    人肌を感じる収蔵庫であった


    これまた舟橋安楽寺から車で5分ほどの距離にある

    曹洞宗 法華寺を訪問する

    尾張国分寺、安楽寺、法華寺と
    この一帯は見事な仏像密集地帯である

    谷椿寺と称したが、近代になって法華寺と改めた

    本堂の中央に荘厳な薬師如来が座している
    定朝様の形式化された像であり
    とても綺羅びやかな像である



    住宅街にあるこじんまりとした境内ではあるが
    洗練されており、大きな薬師如来との
    風景がとても居心地がよい

    畳のうえに寝そべって暫しの休息を愉しんだ





    [20110621]

    先日訪問した際に、満願堂の格子越しに
    見えた観音像らしき存在が気になり
    横蔵寺までの訪問前に時間が出来たことで
    満願堂の拝観を申し出をし
    特別に開帳をしていただくことができた



    若い僧が開け放ってくれた満願堂に
    現れたのは木をそのまま掘り出したかのような
    圧倒的な幹のような仏像である




    降り注ぐ雨雲のせいで像の顔は
    ほとんど見ることができなかったのだが
    その量感は暗がりの中でもなお存在感を放つ





    量感とともに下顎の表現から
    平安期前期~中期の像と推測される

    文献がないため詳細はわからなかったが
    僧の話によるともともとは本堂に安置されていたらしいのだが
    近代になってこの満願堂の本尊としたのだという



    本尊の十一面観音像であることから
    御前立なのでは?!と
    個人的には踏んでいる

    訊くと本尊は文化財の指定を受けていない

    詳細は濁して話しをされたのだが
    文化財の指定を受けると県がいろいろ注文を付けてきて
    本来の信仰の対象ではなくなってくるのがイヤなのだという

    その話には深く共感できた

    ちなみに華厳寺には重要文化財に登録されている
    毘沙門天もいるのであるが内陣にあり
    普段一般人が拝観することはできない



    2年前に本尊の約50年ぶりの御開帳があったのだが
    大変残念なことに機会を逃しお会いすることはできなかった


    本堂のまわりをぐるりと回ると
    大粒の雨が轟々と降り注ぐ
    本堂の中を巡礼者たちが捧げた
    線香の香と煙が天井に満ち
    幻想的な景色をつくっていた




    [20110616]

    名古屋から一般道を使って北上
    稲沢市へ入った

    稲沢という地名は自分と同姓ながら
    まったく関連はしていない

    (※稲沢市は1875年(明治8年)稲葉村と小沢村が合併して稲沢村となった)

    しかし小学生のころから
    地理の授業の際、地図帳に“稲沢”という地名を見つけて以来
    親近感を覚えていつかは訪問できたらいいなぁと想っていた場所である

    今回縁あって、稲沢市を訪問する機会があり
    稲沢市の寺院をいくつか訪ねた


    萬徳寺



    稲沢駅の北側にある寺院で周辺は住宅街ながら
    突然広大な敷地を保有する本寺が現れる

    人一倍怖がりな犬に吠えられつつ
    奈良国立博物館からの調査の時くらいしか
    開けないという多宝塔を特別に御開帳していただき
    中の国の重要文化財指定されている
    大日如来像を拝した



    塔の内部は老朽化が進んでいるということで
    外からしか見ることができなかったが
    張り良く引き締まった面相と
    大きく見開いた眼力が印象的であった


    尾張三十三観音巡礼より
    -------------------------------------------------------
    萬徳寺は、由諸書や縁起によると、神護景雲(768)に、
    称徳天皇の勅願によって慈眼上人が創建し、
    草堂に阿弥陀三尊を安置したという。 

    常円上人は建長6年(1254)に本堂、
    鎮守堂等を建立した。像高101.5cm、

    桧材、寄木造、多宝塔に安置され、
    ほぼ等身の堂々たる金剛界大日像で、
    鎌倉後期を代表する仏像である。
    高髻は、髻と地髪に細かくしかも切れ味のよい
    髪筋を刻むのも鎌倉時代の好みのひとつである。
    -------------------------------------------------------

    次に奥田安楽寺を訪問した


    稲沢市内には“奥田”と“船橋”という
    2つの安楽寺が存在する

    新幹線高架下の信号がない交差点に苦慮しながら
    今回はまず最初に、奥田安楽寺を訪問した

    境内にはすでにご近所の檀家の方とおぼしき方々が
    初夏の日差しの中、一生懸命に掃除をされてらっしゃった

    こちらの大きな収蔵庫の諸仏も
    正月三が日くらいしか御開帳がないのだというが
    今回は特別に開帳していただけることになった



    桧材の寄木造で定印を結ぶ坐像で、
    修理により綺羅びやかさを誇っているが
    制作は藤原から鎌倉初期のものと思われている


    脇侍の引き締まった造形が印象的であった

    境内に役行者像が
    木々の中にひっそりと佇んでいた



    平地の稲沢市に山岳信仰の象徴となる
    役行者像があるというのは一種の憧れがあった
    からではないだろうかと想像をした


    無量光院


    奥田安楽寺からわずか1kmという至近距離にある
    真言宗豊山派の寺院



    仏師寛慶による三尊であり
    造立の時は建仁2年と判明する
    安楽寺に比べて若干彫りが深く
    エッジが利いている





    収蔵庫の造り、中の諸像の造形が
    あまりにも奥田安楽寺と酷似しており
    双子の像のように
    この地に鎮座しているようにも思えた





    目が少し血走っているようにもみえ
    きょうは寝不足でしょうか。






    ・・・旅は続くのですが今回は一旦ここまで 
       つづきはまたそのうち、書きたくなったら


    wikipedia 稲沢市
    -------------------------------------------------------
    稲沢市(いなざわし)は愛知県の北西部、濃尾平野中央部にある市。
    植木・苗木の産地として全国的に知られる。

    また、旧祖父江町は、全国一の銀杏の産地である。
    かつては旧国鉄の操車場があることでも知られた。
    名古屋市へのアクセスが良くベッドタウンとして
    近年発展がめざましく交通の便のよさから
    ソニーや豊田合成などの工場などが多い。
    尾張大国霊神社(国府宮)や矢合観音、善光寺東海別院は、
    尾張地方の人々から広く崇拝を集めている。

    歴史 [編集]

    大化の改新(645年)の後、尾張国の国府が置かれた。
    奈良時代には、聖武天皇の命により、国分寺・国分尼寺が建立される。
    尾張大国霊神社が尾張国の総社と定められる。
    江戸時代は、稲葉村と小沢村の2村で脇街道美濃路の稲葉宿を構成していた。

    1875年(明治8年) 稲葉村と小沢村が合併して稲沢村となり、
             明治の大合併で町制が施行され稲沢町となった。
    1906年(明治36年) 5月10日 中島郡稲沢町・一治村・国府宮村・山形村・
             下津村・中島村の一部・稲保村の一部・大江村の一部が合併し新たに稲沢町が成立。
    1947年(昭和22年) 4月5日 戦後初の第一回の府県知事・市区町村選挙においては、
              山田文七が稲沢町の初代町長として就任した。
    1955年(昭和30年) 4月15日 中島郡稲沢町・大里村、千代田村、
              明治村が合併し再び新たな稲沢町が成立。
    1958年(昭和33年) 11月1日 県内で22番目の都市として市制を施行し稲沢市となった。
    2005年(平成17年) 4月1日 中島郡平和町・祖父江町を編入。
    2008年(平成20年) 11月に、市政50周年にあたり、マスコットキャラクターを『いなッピー』に決定。
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    [20110613]

    名古屋の中心地に
    かつて大寺院として存在していた七寺

    名古屋から稲沢への予定で
    一番最初に訪問した



    本堂の中央にある
    木造観音菩薩・勢至菩薩坐像
    国の重要文化財に指定されている



    かつてはこのあたり一帯に
    七堂伽藍を保持していたたことから名付けられた
    寺名であるが太平洋戦争の戦火で
    全てが炎のなかに消えてしまったそうだ



    それは仏像も例外ではなく
    中尊の丈六の阿弥陀如来および
    写真で確認したところ二天が炎の中で
    焼失されてしまった


    焼失前の伽藍が写真パネルで展示されており
    白黒ながらかつての荘厳さが伺えた


    お堂の中にあった文化庁編纂の
    “焼失文化財”なる本が印象的であった


    広い都市型道路沿いにあるものの
    お堂は小さく、かつての繁栄を伺えるのは
    この二尊の存在くらいしかなく



    それは比叡山延暦寺の創建から燃え残る
    ろうそくの炎のように小さく揺らめいているかのようだった



    wikipedia
    長福寺(ちょうふくじ)は、
    愛知県名古屋市中区にある真言宗智山派の準別格本山寺院。
    山号は稲園山(とうえんざん)。七寺(ななつでら)とも称される。

    寺伝によれば、天平7年(735年)、尾張国中島郡萱津(現在の愛知県あま市)
    に行基が開山。当時は正覚院と称した。

    延暦6年(787年)、紀是広が7歳で亡くなった子を弔うために
    七堂伽藍(7区の仏閣と12の僧坊)を建立した事から、
    これに因んで七寺と呼ばれるようになった。

    七堂伽藍は仁和3年(887年)の水害や天慶4年(941年)の
    兵火により荒廃したが、仁安2年(1167年)、
    勝幡城主・尾張権守大中臣朝臣安長が娘の菩提を弔うため、
    婿であった豊後守親実と共に計らって寺を現在の稲沢市七ツ寺町に移し、
    七堂伽藍と十二僧坊も再建した。

    安長は安元元年(1175年)から治承2年(1178年)に
    掛けて一切経を書写させると共に、阿弥陀如来像と
    観音菩薩・勢至菩薩像を奉納し、寺の名を稲園山長福寺と改めたが、
    安長が建立した寺塔のほとんどは建武年間の戦火で焼失した。

    天正19年(1591年)、豊臣秀吉の命を受けた
    清洲の豪族・鬼頭孫左衛門吉久が清洲に寺を移して本堂を再建。

    慶長16年(1611年)、徳川家康の清洲越しの命によって
    現在地に移転されるに当たって本堂が清洲から移築。

    かつて失われた諸堂も再建された。元禄13年(1700年)には
    尾張藩二代藩主徳川光友により三重塔が再建され、
    享保15年(1730年)より尾張徳川家の祈願所となった。

    境内には芝居小屋が建ち並び、当時の大須界隈にあっては
    大須観音や名古屋御坊(西本願時)[1]を凌ぐ寺勢を誇ったとも伝わる。

    ▼近代
    明治12年(1879年)、総本山智積院の末寺となり、
    明治44年(1911年)には準別格本山に昇格したが、
    昭和20年(1945年)3月19日の空襲で経蔵以外の七堂伽藍全てを焼失。

    境内のほとんどは戦後復興に伴う再開発で大須の町の一部となり、
    現在では街中にある小さな寺の様相となっている。


    重要文化財

        木造観音菩薩・勢至菩薩坐像

    平安時代後期作。もとの本堂本尊・
    阿弥陀如来坐像の両脇侍だったもの。
    「阿弥陀三尊像」として1904年(明治37年)に
    重要文化財(当時の国宝)に指定されたが、
    1945年3月19日の空襲で本堂(旧国宝)と
    本尊の阿弥陀如来像は焼失、かろうじて観音菩薩像・勢至菩薩像の本体と
    勢至菩薩像の光背のみが搬出されて焼失をまぬがれた。
    この時の空襲では本堂内にあった
    木造持国天・毘沙門天像(旧国宝)も焼失した。




    [20110611]

    三重県松阪市のよるは

    松坂牛!



    前回、三重県を訪問したときも
    一升びん


    今回は家族で









    カルビも柔くって冷えたビールも相俟って
    たらふくいただいた

    まいう★

    [20110609]

    長野県のあるお寺を訪問したのが
    寺院名は敢えて伏せさせていただく

    その理由は後述する

    山間の中にあるこの寺院は
    国道から野を分けいった山の麓にある



    昨年12月に先代のご住職が亡くなり
    現在は近くに住むご子息が寺の管理をなされている

    しかし管理といっても
    ご子息はお寺とは全く別の仕事を担っており
    鍵をもっているだけであった

    仕事のわずかな合間を無理を言ってお願いを
    させていただき本堂を開けてもらった



    本堂の中央には厨子がおかれご子息の話であると
    60年に1度開帳するという聖観音が収められているが
    ご子息も見たことがないのだという

    先代の住職のときに御開帳があったときの話では
    現在は朽ちてしまい木片と同様の
    観音像があるだけだという

    そして本堂左の暗がりに
    半丈六の阿弥陀如来が鎮座していた



    阿弥陀如来は典型的な定朝式でありながら
    引き締まった潔さを残す

    肉髻はやや高く、先代住職の時に修理した
    真新しさが残念ではあるが量感溢れる仏像である

    脇の壁はヒビが入り
    本尊のすぐそばにまで
    老朽化が進んでしまっている

    そして裏山にある薬師堂にあがった
    荒廃がさらに進んだ光景に驚愕する



    ボロボロの薬師堂は
    なんと国の重要文化財に指定されている
    薬師如来が納められているのだそうだ

    しかし荒廃が進みすぎて
    危険なため拝観をすることはできないと
    伝えられた



    近々、県の教育委員会が現状を見に来るのだというが
    今まで国の重要文化財に指定されながら
    機関が行ったことは消化器一本を送ってきただけだという



    本寺は戦後まもなく無住の時代がつづき
    先代の住職が就いたものの檀家数は数件
    かつ奥まったところにあるため
    観光客もまず来ないのだそうだ


    昨年住職が亡くなってからというものの
    お寺を維持をすることが全くできず
    本堂へ続く道にも雑草が自由に伸びてしまっていた


    ご子息はこのまま荒廃していくのも
    この像の運命なのかと思いながら
    なんとか維持をさせていきたい

    しかしお寺を存続させたとて
    食べていくのはかなり困難なことであることは
    目に見えており何も手立てがなくなってしまっているのだという


    自身の父を含めこのお寺を守ってきた人に
    申し訳ないという気持ちもおそらく
    あるのだろう




    自分にはなんとかしてあげたいという
    気持ちがふつふつ湧き上がってくるのだが
    自分はご子息の悲痛な叫びに
    ただただ、うなずくだけしかできなかった


    絶望感にも似た視線で
    薬師堂を眺めていた




    [20110608]

    名古屋から約150kmの道のりを一気に北上
    伊北インターチェンジを降りて山間に向かって進んでいくと
    桑沢山の麓にある薬王寺が現れた



    もともとは桑沢山の中腹に600年代に創建された寺院であるが
    源義朝の再興の後1676年に麓のこの地に移ってきている

    予定よりも30分近く早く到着したため
    お寺の方を急がせてしまったのだが
    沐浴をし時間を埋めた

    青々しい樹木に囲まれて呼吸をするだけで
    温泉のように頭の先から
    力が抜けていくことが分かる

    しばらくすると県教育委員会の方も2名いらっしゃって
    寺の方の案内で明治24年に建てられた本堂の中に入って
    薬師如来を拝した



    須弥壇のうえにある薬師如来は本尊の御前立
    平安時代の作で一時は重要文化財の指定を受けたものの
    更新がうまくいかず現在は県指定となっているそうだ



    しかしそんな指定を感じさせないほどに
    見事な薬師如来像である

    京都・東山の若王子社の国宝薬師如来に
    雰囲気が似ておりやや下膨れの下顎が発達していない面相は
    未熟な幼さを感じさせてくれる



    奈良国立博物館 国宝薬師如来


    本堂を出て土蔵の新築に譲り受けたという
    収蔵庫へ移動し本尊の扉が開かれた



    現れたのは御前立と全く対照的な薬師如来
    これは明らかに別の人物による作である



    直線的な線の彫眼は地方仏師にある表現であり
    硬直した表現も田舎仏師の作のように感じる

    時代としても御前立のほうがやや古く
    本尊のほうが時代としては新しいように感じた

    本尊が御前立よりもあとに造られることはまず有り得ない

    同行者とともにどのような経緯があるのか
    思いを巡らせたのだが

    ・本尊と御前立がいつかのタイミングで入れ替わってしまった
    ・本尊が被災しあとから作ったものを本尊として納入した
    ・御前立は付近のお寺からの客仏


    上記のようなことが原因なのではないかと考えた

    対照的な二体の像がどのような経緯で
    この地に残っているのか、思いは尽きない


    [20110605]

    由来が不明な阿弥陀如来像



    唯一江戸初期の修理記録が納入されており
    唐津鏡山の山麓に伝えられていたことが
    分かっている

    唐津鏡山は先日の記事にも書いた浮嶽神社から
    直線距離でわずか5kmほどのところにあるため
    この一帯の清賀上人による
    怡土七ヶ寺となんらかの関係性があるとも想像できる

    ※浮岳神社 如来像


    クスノキの一木から彫り出され
    過去の写真を覗くと肩と太腿に
    ウロ”を確認できる



    現在は補修され、ほとんどその跡を
    確認することはできなかったが
    火山口のようなウロ
    (樹洞)ができるということは
    一材で創られたことを物語るうえで
    大変興味深い


    顔はやや面長の引き締まった顔つきで
    男性的な面持ちをしている


    浮嶽神社の諸像にも感じることであったが
    炎のように燃え盛る魂を感じ
    自分にとっては不動明王よりも畏れてしまう


    しかしこのような畏れが
    自分を仏教美術を求め、駆り立てる原動力となっている


    北九州は畏い





    wikipedia 鏡山 (佐賀県)

    鏡山(かがみやま)は、佐賀県唐津市にある山である。標高284メートル。

    頂上は平坦な地形のため、遠景は台形の山で、虹の松原と並んで、
    唐津市のシンボル的な場所の1つである。

    山麓から頂上へは、自動車道路のほか、3つの遊歩道がある。
    近年、有志により登山用の階段も整備された。自動車では登山口から10分、
    徒歩では30分から60分ほどで山頂に到達する。

    頂上には展望台があり、眼下に広がる虹ノ松原や、
    唐津湾とそこに浮かぶ高島、鳥島、神集島などの島々、
    さらに福岡県の姫島、烏帽子島、小呂島、天気がよければ長崎県の壱岐なども望め、
    このほかに唐津城、市街地、農耕地が織り成す絶景を一望することができる。

    ふもとのレンゲ畑や水田は春から秋にかけて美しい所であったが、
    ジャスコ唐津店の進出を始め、国道202号バイパス沿いの開発により、景観が失われつつある。

    また頂上には鏡山神社、電波塔、ハンググライダーのための斜面もある。
    山頂の池では、売店で購入したポップコーンなどを鯉にあげる市民の姿も見られる。
    5月には、つつじが満開となり、その景観を楽しめる。

    鏡山の名前は、神功皇后が山頂に鏡を祀ったことに由来するといわれている。
    また、松浦佐用姫(まつらさよひめ)が山頂から大伴狭手彦の船を見送ったという伝説の地であり、
    佐用姫がそでにつけていた領巾(ひれ)を振りながら見送ったということから、
    領巾振山(ひれふりやま)の別名でも呼ばれる。

    鏡山に関して地元では次のような戯言がある。

     日本一高い山は鏡山である。
    かがんだ(方言で「座る」の意)山なので、立ったら日本一高い。
     鏡山ができたとき、上を切り取って海に置いたのが高島、
    その上を切り取ったのが鳥島という言い伝え。
    鏡山と高島はともに台形であり、見た感じの大きさも丁度よいものである。
    同様に、巨人が鏡山に躓いて転んだため怒り、
    頂上部を殴り飛ばしたことで高島などが出来たという。


    [20110604]

    軍艦島は大学時代に
    ayuから話を聞いて知った島と
    記憶している

    写真でしか伺うことはなかったが
    その衝撃たるや
    廃墟の最高峰とも言うべき島である


    佐賀県より高速道路を
    長崎自動車道を南下し
    山々を縫うように沿って
    最後のながさき出島道路のトンネルを
    くぐると突然長崎の市街地に出た



    川端康成の「雪国」の一節
    “トンネルを抜けるとそこは雪国だった”という
    有名句があるが、まさしく突然街が現れる


    山から街に変わるコントラスト
    トンネルを抜けすぐ近くの
    長崎県立美術館の脇に車を
    止めたところでとても残念なニュースが
    飛び込んできた


    その日予約していた軍艦島のツアーが
    天候が悪いため出航中止となった




    途方に暮れてトボトボと海岸線を歩く


    目の前がフェリー乗り場だったため、
    休憩することが目的として行ってみると、
    なんと軍艦島への出航はキャンセルにはなってなかった



    正式には軍艦島へのアプローチには
    上陸コース”と“周遊コース”と2つあり
    キャンセルは“上陸コース”だった


    すぐさま周遊コースを申込
    15分ほどフェリー乗り場で時間が来るのをまって
    軍艦島行きのフェリーに乗り込んだ



    軍艦島への道すがら
    長崎港に並ぶ造船ドックの中を
    覗くことができた



    巨大なメカ空間が好きな自分は
    この光景だけでも通常だったら満足していたハズだ



    乗船所のドッグに興奮しながら
    沖に出ると波がだんだんと高くなり
    軍艦島がうっすら見えるころには
    オエオエ~と完璧
    船酔いになってしまった




    そんな鬱蒼とした視界の中に現れた姿は
    まさに“軍艦”





    当時日本世界一の人口密度を誇ったと言われる
    その島には学校、病院、郵便局、果ては映画館まで
    ありとあらゆる施設が取り揃っていたとされているが
    目の前の光景はそれを物語るにふさわしい要塞だった


    島をグルりを廻って
    ぽつぽつとまわりにいた人が消えてゆく



    軍艦島周辺の海域はとても波が高く
    その船酔いに耐えかねた人が退散していった



    自分も今にも吐きそうな気分を

    待ちに待ったその光景を見逃すまいと
    目をかっぴらいていた



    心に大きな心柱を立てて
    なんとか船上から振り落とされないように耐えていた


    すると、軍艦島の頂上に鳥居や拝殿らしきものも見えた



    船内アナウンスによると端島神社だそうだ
    ボロボロの朽仏ならぬ朽社



    またアナウンスでは寺もあったようで
    軍艦島には神仏習合があったそうだ



    日本 とくに戦後復興の縮図が軍艦島には
    閉じ込められていたように感じた



    長崎港にフェリーが到着しても
    軍艦島の余韻は吐き気で自分の頭に残り続けた





    wikipedia 端島 (長崎県)より

    端島(はしま)とは、長崎県長崎市(旧高島町)にある島である。
    かつては海底炭鉱によって栄え東京以上の人口密度を有していたが、
    閉山とともに島民が島を離れ、現在は無人島である。
    軍艦島(ぐんかんじま)の通称で知られている。

    長崎港から南西の海上約17.5キロメートルの位置にある。
    端島は本来は、現在の3分の1ほどの面積しかない小さな瀬であった
    その小さな瀬と周囲の岩礁・砂州を、1897年(明治30年)から1931年(昭和6年)にわたる
    6回の埋め立て工事によって拡張したものが、現在の端島である


    端島での石炭の発見は一般に1810年(文化7年)のこととされる(発見者は不明)

    1890年(明治23年)、端島炭鉱の所有者であった
    鍋島孫太郎(鍋島孫六郎、旧鍋島藩深堀領主)が三菱社へ10万円で譲渡[19]。
    端島はその後100年以上にわたり三菱の私有地となる。

    端島炭鉱は良質な強粘炭が採れ、隣接する高島炭鉱とともに、
    日本の近代化を支えてきた炭鉱の一つであった。

    石炭出炭量が最盛期を迎えた1941年(昭和16年)には約41万トンを出炭[23]。
    人口が最盛期を迎えた1960年(昭和35年)には5,267人の人口がおり、
    人口密度は83,600 人/km2と世界一を誇り東京特別区の9倍以上に達した[24]。
    炭鉱施設・住宅のほか、小中学校・店舗(常設の店舗のほか、
    島外からの行商人も多く訪れていた)・病院(外科や分娩設備もあった)
    ・寺院「泉福寺」(禅寺だがすべての宗派を扱っていた)・
    映画館「昭和館」・理髪店・美容院・パチンコ屋・雀荘・社交場(スナック)「白水苑」などがあり、
    島内においてほぼ完結した都市機能を有していた。ただし火葬場と墓地、
    十分な広さと設備のある公園は島内になく、これらは端島と高島の間にある
    中ノ島に(端島の住民のためのものが)建設された。


    1960年以降は、主要エネルギーの石炭から石油への移行(エネルギー革命)により衰退。
    1965年(昭和40年)に三ツ瀬区域の新坑が開発され一時期は持ち直したが、
    1970年代以降のエネルギー政策の影響を受けて1974年(昭和49年)1月15日に閉山した。


    [20110603]

    滋賀県の湖南エリアにある日野町は
    2010年10月17日~2010年11月23日にかけて
    本尊千手観音立像が開帳されていた
    正明寺の訪問以来であった

    今回は日野町の天台宗寺院【金剛定寺】を訪れた

    山門前の小さな駐車場に車を停めて
    古びた石段を数段あがる

    広がる光景はとても洗練されていて
    禅寺のような趣きも感じることができる



    野條叡信住職に案内されて訪れた
    奥の本堂大悲閣には数々の寺宝が収められていた


    見上げる高さにある厨子には
    本尊の十一面観音像、坐像



    室町期のカヤ材の作で
    丸山氏が最も愛でた像であったとのこと
    保存状態がよくかつての木目の素地を暗がりの中にも
    見ることができた


    淡くゆらめく蝋の火にあぶり出され
    世の中を憂いているように感じた



    厨子に向かって左側には
    二体の珍しい像

    左側に元三大師像
    前には角大師が置かれていた
    角大師像は愛らしくキャラクター性があり
    こんなことを言っては失礼だと思うが
    仏像というよりも人形のようであった



    右側にある阿弥陀坐像は
    装飾品を見にまとい阿弥陀如来ながら
    菩薩像のようである



    漆だろうか白色灯に照らされた
    阿弥陀如来の肌は青銅色のように見え
    それが洗練性を際立たせていた


    本尊の向かって
    右側には平安古像が二体鎮座している


    一体は不動明王及二童子立像。
    平安前期まで遡るであろうか、
    一木感漲る像であり、
    訪問前に写真を見てきたが
    立体で見る不動明王は
    巨木らしい威風堂々とした像であることが確認できた




    二童子立像は童子として名は付けられているものの
    プロポーションが良く幼い、というよりも若々しいという
    形容詞が近しいように感じた



    これは茨城県つくばみらい市にある
    “板橋不動”の名で親しまれる清安山不動院の
    秘仏不動明王の二童子に近しい表現である



    また眼を繰り出す表現は
    新潟県三島郡三島町にある寛益寺十二神将像の
    表現にも同一のものが感じられ
    ユーモラスな
    童子像を演出していた


    左側の聖観音立像は
    金剛定寺の数ある寺宝のなかでも
    一際、平安古様を残す像であった



    翻波式衣文はテンポよく流れ
    平安前期の作であることが推定できる


    微かな笑みを浮かべる独特な面持ちは
    簡素な表現ながら呪術的な
    ミステリアスさを残している

    見ているうちにどんどん引き込まれる
    魅力を本尊は持っている



    野條住職は音大出身で声明を勉強すべく天台宗の僧になり
    比叡山で修行、縁あって金剛定寺の住職に着任することになったそうだ
    住職はご自身が作曲した音楽は
    ローマ法皇の前で演奏されたこともあるのだという

    着任当時の荒れに荒れた金剛定寺を独り身で
    今日の禅寺とさえ感じるところにまで持ってきた苦労話をしていただいた

    ご本人は飄々と語るが
    その苦労たるや想像を超絶するものである


    庫裏にはグランドピアノが置かれ
    時にそのピアノで作曲活動をされているのだそうだ
    『わしゃあと10年以内にはいなくなるから・・・』なんて
    弱気なことを仰られていたが、

    金剛定寺の諸像とともに
    綺麗な音色をいつまでも
    この地に響かせてもらいたい



    滋賀県観光情報より>
    近江鉄道日野駅の西約2.2kmにある天台宗寺院。
    日野町内でもっとも古く、文化財が多い寺です。

    聖徳太子が建立し、奈良時代にはすでに相当の勢力を持つ寺だったといいます。 
    境内は、本堂である大悲閣と茅葺きの庫裏、
    1つの鐘楼を残す小ぢんまりとしたものですが、
    約400年前までは、現在地を中心にして東谷西谷のすべての地内に
    ぎっしりと堂塔伽藍(どうとうがらん)や僧坊が立ち並び、
    多くの学僧たちが、修行や勉学にいそしむ大法城を形成していたといいます。

    本堂大悲閣(たいひかく)の中には、国の重要文化財に指定されている
    平安時代の木造聖観音立像・木造不動明王及二童子立像をはじめ、
    各時代にわたる文化的価値の高い仏像が安置されています。

    〈重文〉木造聖観音立像 木造不動明王及二童子立像 奈良時代、
    聖徳太子開基の天台宗寺院。「月も日も入りぬるにじの中山や願ふ仏のみくになるらん」






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    迦楼馬 (03/27)
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    孔雀明王 仏像 愛知県で 検索中です。
    時折 孔雀明王の真言を 寝ているとき 唱えています。
    名古屋に 孔雀明王が ご安置 されている寺社は ないかなぁ
    宗教研

    こばりん (01/13)
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    yoshiki (12/23)
    不空さん

    神像もたせてもらえるんですかw
    安産寺年明け御礼参りをさせてもらう予定です。
    ことし一年お世話になりました。

    不空 (12/17)
    正覚院 → 正覚寺

    不空 (12/17)
    安産寺が一番というのは、今年を表してるね! それにしてもたくさん相変わらず行ってるね!だめだよ、地蔵尊に怒られるよ(笑) 山形のは、開けてくれて良かったですね、巨

    株取引の流れ (11/20)
    とても魅力的な記事でした!!
    また遊びに来ます!!
    ありがとうございます。。

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