然るを訊く
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    [20110831]

    山代温泉は新しい木造の建物が並びピカピカしていた

    薬王院温泉寺に訪問し
    ダメもとで庫裏のチャイムを鳴らすと
    住職がおいでくださり前回と同じ突然の訪問にも
    関わらず、観音堂の扉を開けてくださった



    扉の中の白山信仰の本地仏とされる
    十一面観音と対峙した



    廃仏毀釈の折、水の中に埋められ
    難を凌いだと伝承が残っている


    表情はあまりなく静かに佇み
    唇は小さく、腕がすらりと
    しなやかに伸びる
    頭上の化仏は高く積まれ気品が漂っている



    前回は一人旅
    今回は二人旅

    何人で来てもいいものだ
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    [20110829]

    この当時のファッションとかやってみたい



    森川由加里SHOW ME



    Wink 淋しい熱帯魚 (HD)




    いつまでも変わらぬ愛を 織田哲郎



    久宝留理子 - 早くしてよ (1994) PV


    2011-08-29(Mon) 23:47 | トラックバック(0) | コメント(0)
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    [20110826]

    去年訪問した豊財院お盆はご住職が棚経に出られており
    お母様がいらっしゃるということで逆に都合がいい結果となった

    訪問した時間がちょうど12時で
    若奥様がこの白瀬町一帯に山門に吊下られた鐘楼を
    『ゴーン』と手袋をはめて打ち鳴らしていた

    住職のお母様とお会いするなり
    自分の顔を覚えてくださっており
    『あぁ、お顔覚えてる、ありがとう』
    優しい声色で言葉をかけてくださった




    石段を数段登ったところに収蔵庫があり
    重厚感のある扉をあけ
    平安中期の木彫仏が三体並ぶ姿を拝見することができた



    どれも同じような上背の観音像で
    馬頭観音は現存する日本最古の馬頭観音と
    言われている



    先日北上市の『鬼の館』に訪問したこともあってか
    観音というよりも鬼の存在に近いと感じた



    実は昨年訪問した際、一番右側の馬頭観音像は
    金沢県立美術館で行われていた
    『加越能の美術─縄文から江戸時代までの名宝─』に
    出品されていたため、聖観音と十一面観音の二体のみを
    拝しており、今回は念願叶って三体の像が並ぶ光景を
    目に焼き付けることができたのだ



    奥様は一緒に来た友人に対して熱心に説明をしてくださって
    一つことあるごとに『ありがとう』と温かい言葉とともに
    観音像にひれ伏す美しい姿がとても印象的であった





    奥様は今回の震災のことを大変心配しており
    自分も大変な思いをしてここまでやってきたが
    今回の震災で自分がどれだけ幸せなのか
    観音たちに感謝しているのだそうだ


    最後は棚経からお昼を食べるために戻ってきたという
    現ご住職とお会いすることができ暫し談笑することができた

    立派なご住職に成長なされて奥様も大層安心しているだろう



    豊財院をあとにした自分たちは
    羽咋の町のなかにあるカレー専門店『モト』を訪問し
    とんかつカレーをオーダーした

    揚げたてのトンカツのうえに
    ドロっとルーが乗っかかり
    味はカレーというよりもビーフシチューのような
    変わった味わいで、これはこれでおいしい
    サプライズも与えてくれた



    ちょっと不思議な店ですが
    店員のおばちゃんや厨房のおいちゃんも
    雰囲気のある方々で印象的なカレー店であった





    [20110823]

    クマカブトアラカシヒコ”というとても長い音を持つ神社



    七尾市の中島町にある神社で
    無形文化財に指定されている
    『二十日祭り』や『お熊甲祭り』の名前で
    親しまれ、毎年9月20日に天狗の面をつけた
    猿田彦が20mの朱旗を担ぐという
    とても壮大な祭りである




    本来は重要文化財に指定されている祭神を
    拝観しようとしたのだが
    お願いしようとした
    その日に神主がお亡くなりになったという
    知らせを教育委員会経由で聞き、
    拝観を断念しかけたのだが
    奥様の計らいで薬師如来であれば開帳できるという話を聞いて
    故人を偲びつつ、時間を置いて訪問させていただいた

    かなり広い境内の一画に本地仏である
    薬師如来を祀る薬師社があり奥様の計らいで
    その扉が開かれた



    開かれた瞬間、
    中に入る大きな薬師如来に息を飲んだ




    木の素地が顕になりややオレンジの肌のようになり
    衣紋はなだらかかつ小気味良く波を打つ

    手先は美しくしなやかに伸び
    ため息が出るほどであった





    久麻加夫都阿良加志比古神社 由緒



    [20110823]

    新潟県十日町市の由屋






    夏の味だ

    [20110821]

    七尾駅前のホテルに一泊
    朝、七尾駅で金沢出身の友人と待ち合わせをした

    最初に訪問した妙観院は七尾駅から
    車でわずか五分という立地にある



    お盆の真っ只中住職の奥様が出られてくださり
    本堂の中央にある阿弥陀如来像を拝んだ



    遠目からではあったがスッキリとした
    切れ味のある作風は平安末期~鎌倉時代に
    入ってからのものだろう


    この地域は元々は岸壁にあり
    お寺の目の前まで海であったものが埋め立てられて
    成り立ったのだとお話いただいた





    これはそうめん不動と言われる不動明王



    資料より:
    お寺の忙しい時に住職に身を変えて、
    お参りの人に「そうめん」をふるまったという言い伝
    えがあります。お不動さんにはめずらしく、柔和な表情をされています。




    資料より:
    草創期は定かではありませんが、城山牛が首から移
    転したものと伝えられております。

    観音堂には、その昔弘法大師様が漂着した霊木に一刀
    三礼で刻んだと言われる秘仏”聖観観音菩薩“が祁ら
    れてあり、三十三年に一度の御開帳が行なわれます。
    また、当山は「七不思議」をはじめ古くから伝説の多い
    寺院で、珍しい「唐門づくり」の山門は
    「龍宮城の門」のようです。

    大正時代の終わりごろまで、山門の前に波が打ち寄せ、
    岩すそを洗っていた、と伝えられ、そんな所から山号
    を小嶋山といい、寺号は海岸寺となったようですが、
    院号の”妙観院“がよく知られています。
    離れ小島であった時代の名残りを留める展望の良さ
    で、七尾名所や七尾八景に含まれ、多くの見聞記が残
    されています。


    その昔、ここは未だ海にかこまれた小さな島でした。諸国巡行中の弘
    法大師がこの島に流れついていた観音経の書かれた一本の流水で、聖
    観音さまを御彫刻になりました。三十三年に一度の開帳秘仏です。





    [20110820]

    須須神社からランプの宿の脇を
    通りぬけ狼煙という変わった地名の由来に
    想いを馳せながら海岸沿いの道に西へ車を走らせた

    西日は水平線へとベクトルを向け
    橙色に光が変わって行こうとしていた



    “曹源寺には18時を過ぎてしまうかもしれない・・・”ということを
    事前に伝えていたのだが“今の18時はまだまだ明るいから大丈夫よ”
    と管理人の国芳さんが話してくれていたのだが
    結局当日訪問すると国芳さんは来れず、また別の方が
    境内を掃除して待ってくださっていた







    よう遠いところからいらしてくれたね、と
    ニッコリと笑顔で迎えてくれた





    本堂の中は無住のお寺とは思えないほど
    綺麗に整頓されており何よりも地域民が
    手作りで製作したと思える品々が
    堂内のあちらこちらで見ることができた



    本堂の奥にある藤原期の阿弥陀三尊は
    この時代の代表とされる定朝式の阿弥陀三尊を
    地方仏師の解釈で作成したものだと思われる















    全体的に固さが目立ったが
    ユーモラスな脇持の存在がほのぼのとした
    仏像の存在を照らしてくれていた



    この阿弥陀如来が光って馬の足を止めてしまったという
    伝承を管理人の方が話をしてくれた

    おそらく佛の素晴らしさを伝えるための
    ストーリーではあるがとても興味深かった

    手作りの着飾った可愛らしい地蔵菩薩たち

    -------------------------------------------------------
    能登の外浦に面し、日本海の潮風が吹きつける丘の上に、曹源寺はひっそりと建っている。
    ここに客仏として、阿弥陀如来の坐像と、その両脇に観音・勢至の両菩薩が安置されている。
    「日野の阿弥陀仏」と称され、若山庄の領家日野氏の末裔の持仏であったと伝承されているが、
    近代に入って曹源寺へ移された。構造は寄木造、彫眼、漆塗。後補の台座の上に、
    本尊は結跏趺坐し、定印を組む。その顔は童顔で、円満具足の相をそなえ、平安時代後期の風潮を反映させている。
    過去幾多の兵乱や災害をくぐり抜けて、このような無傷で、阿弥陀三尊像が残ったのは、石川県内では、きわめて珍しい。
    湿度が高いこともあり、朽損の甚だしい県内にあって、能登半島の先端地区に、
    古代の木像彫刻が、完全といってよい状態で残っている例が見られることは、特筆すべきであろう。
    昭和60年「石川の文化財」より
    -------------------------------------------------------

    おばあさんにお別れを言って去る
    バックミラー越しにおじぞうさんの存在を感じながら車を走らせた







    [20110819]

    高田寺をあとにして
    能登半島の先端を目指した

    能登半島の先端へは自分の過去の記事を
    見ると2007年に訪問していた

    記憶を辿ると、前日に七尾市にある
    インターネットカフェで夜を明かし
    翌朝、夜明け前に車を飛ばして
    金剛崎へと行き、能登の海から昇る
    日の出を拝んだ、あれ以来だ

    [20070501]
    http://andon21.blog85.fc2.com/blog-entry-17.html

    ※当時の自分※


    海に面して須須神社の鳥居が立つ



    宮司の猿女さんの予定が忙しいらしく
    なるべく早く来てもらいたいということで
    高田寺から急いで須須神社を目指し
    予定よりも30分ほどはやく到着することができた

    参道をのぼる中、まとわりついてくる蚊の大きさが
    海の近さを鮮烈に感じさせてくる





    本殿の前で猿女さんと出会い
    収蔵庫にある、五体の男神坐像を排した



    鎌倉初期と推定された像たちは
    いずれも個性的なポージングをしており
    形式化されていない










     

    このような立体的表現かつ動きを
    感じさせるのは鎌倉時代という時代背景なのか
    それともそもそもの作者が仏像に縁があったからなのか
    想像を巡らすと面白い

    木目がオーラのように見つめていると
    木像たちが揺らめいてくる


    この5躯の男神像は、檜材、一木造、彫眼。頭部に巾子冠を頂き、袍衣に身を包み、
    胸前に手をこまねいて坐するもので、手の上あるいは下辺から膝部を矧ぐが、
    膝部の矧木は全て欠失している。本来は彩色されていたものであるが、
    痕跡がわずかに残るのみで、ほとんど剥落している。正面を向くものと、
    左斜あるいは右斜を向くものとがあり、加えて頤に髯を彫り出すものと、
    髯の無いものとがある。このように面貌などに多少の相違はあるが、
    寸法・形状などから、これらは一群の神像と見なされ、鎌倉時代後期の制作になるものと考えられる。
    なお、須須神社は、通称「三崎権現」、「三崎明神」と称して仰がれ、
    高座宮と金分宮との総称であるが、元来は高座宮で、金分宮は後世に合祀されたようである。
    延喜式内の古社である。

    昭和60年「石川県の文化財」より



    猿女さんと別れたあと境内を一人で散策したのだが
    子連れの獅子などに出会うことができた



    散策のあと、海を見ながら暫しボーっと
    ゆったりとした時間を過ごした

    近所の少年たちが海を遊び場に楽しんでいたが
    海なし県に育った自分には出来なかった経験であり
    とても羨ましい視線を送ってしまっていた






    須須神社縁起
    当社は高座宮(たかくらぐう)・金分宮(きんぶんぐう)の両社に御夫婦の大神を祀り、
    須須神社と称し「三崎権現」「須須大明神」と尊崇され、東北鬼門日本海の守護神として、
    あまねく信仰され、災難除けの御神徳あらたかな御社である。
    第10代崇神天皇(約2000年前)の御代能登半島最東北端の山伏山(鈴ケ嶽)の頂上に創建され、
    天平勝宝年間に現在の地に遷座しました。
    国史「三代実録」によると、貞観(じょうがん)15年(873)8月4日従五位上の神階を賜わった、
    延喜式内の古社で、社伝によれば用明、元正両天皇より勅使の献幣があり足利時代は
    大宮司猿女(さるめ)氏以下、社人社僧多く、別当寺に十二坊、社領三千石が献納されており、
    天正12年(1584)加賀藩主前田利家公が巡国のみぎり御祈願所と定め、
    社領として神田五町歩(石高七十五石)を寄進し、武運長久の祈願をされております。
    古代より縁むすびの神として、世に知られており、この「むすび」とは、
    ただ単に男女の仲を結ぶだけではなく生成化育、修理固成という
    日本民族の根本精神である神業(かみわざ)を、みずから妹背(ふうふ)の
    契を結び子孫繁栄の道を示し教えられた尊い祖神(おやがみ)さまであります。
    また祭礼は珠洲一郡の総社として「お郡祭(こうりさい)」
    「御出御幸(おいでごこう)」と称し郡内巡行の祭儀が半月がかりで
    近年まで斎行されていました。
    奥宮鎮座地の山伏山(標高172m)は山容優美にして海上からの景観は、
    鈴をさかさにしたような典型的な神奈備の霊山で、原始時代から北海航行の目標、
    漁だめの森、御神体山として崇拝され、平安中期(約1200年前)には
    海上警戒の設備を置き、烽火(のろし)(狼煙(のろし))が一たび、
    あがると郡家で受継ぎ国府、そして京の都へ伝達されたと云われている。
    元禄10年(1697)加賀藩へ出した大宮司書状によるとすでに
    奥宮の中腹に大燈明堂が設けられ、一夜に油一升、燈心布三尺をもちい、
    夜ごと大神に献燈し、北海暗夜、渡海船を守護し、この燈明堂が
    明治初年現在の禄剛崎灯台に進展したものです。
    本社社叢(もり)は千古の昔から神域として保護され、北部照葉樹林の、
    うっそうたる原生林をなし境内約一万坪には、スダジイをはじめ、タブノキ、
    ヤブニッケイ、ヤブツバキ等が混じり、林床にはミヤマシキミの
    純群落が見られ約250種の植物があり、国の特別史跡名勝天然記念物に指定され、
    貴重な存在とされております。






    [20110818]

    国道249を東へ進んで行く
    珠洲市と輪島市の境にある真言宗寺院である
    高田寺を訪問した



    お盆の準備をしている大変忙しいなか
    お盆の前日なら。。。という理由で
    拝観させていただくことができた

    本堂の左側の位牌がならぶ部屋の台座にうえに
    薬師、釈迦、阿弥陀の三尊が並んでいる






    近くの集落から廃仏毀釈の折、高田寺に伝わったとされているが
    どの像も大きな像であり、その大きな像が三体も並ぶ光景は
    なかなか圧巻である



    どれも平安後期のやや形式化された作りであり
    都風な作りをしているがこれほどの大きな像が三体も
    このお寺に伝わるのであるから、その背景には
    とても興味を惹かれる




    高田寺は、平時忠の末裔と伝えられる上・下両時国家の菩提寺である。
    本尊毘沙門天、左の仏間に釈迦・阿弥陀・薬師如来の三仏が安置されてある。
    毘沙門天は、四天王の一つで、北方の天主として、
    古来、北方鎮護・仏法護持の守護神として信仰されている。

    「仏説毘沙門天王経」に、毘沙門天王は、過去仏・現在仏・未来仏に
    「我今帰依」とあり、ここに安置されてある三仏も、
    これに基づく信仰の所産であろう。

    薬師・釈迦如来像の台座には、それぞれ木製修理札が挿入され、
    時国又七郎が延宝8年(1680)に父母の菩堤のために修理したことが知られる。
    阿弥陀如来像も同様と思われるが、延宝の修理札を欠き、嘉永6年(1853)の修理札を有する。
    3体とも、表面の彩色が剥落しているため寄木や木割が明暸に観察できる。
    用いられている尺度や寄木法、さらには衣紋などに、それぞれ若干の差違があるが、
    いずれも平安時代後期の穏やかな作風をもつ。
    昭和60年「石川の文化財」より





    [20110817]

    龍護寺から国道249号線をそのまま能登半島の奥へと
    向かって輪島市へと入った門前町に
    宝泉寺を訪ねる



    前の電話からは住職の体調次第ということを
    言われていたのだが、いざ訪問すると
    とても朗らかなご住職が出迎えてくれた



    住職に案内されて本堂にはいると
    ちょうどご詠歌のテープが堂内に響き渡っていた

    イワセヒコ神社に伝来したといわれる
    神像が内陣の手前に簡素な台のうえに
    ちんまりと置かれていた



    どちらの像も痛みと摩滅が激しいのだけれど
    ミニマリズムを感じさせる
    コロコロっとした風貌に思わず笑みがこぼれた





    住職に別れを告げようとした時に
    境内の隅にある不動堂の存在に気づいた



    ご住職にお願いしたところ、ぜひ見ていってくださいと
    電気のスイッチを入れてくださり中に入っていくと
    そこには大きな毘沙門天が祀られており
    存在を知らなかった自分の心が躍るのを感じた



    首のないズングリな体躯ながら
    腰の作りはなかなかシビアに作成されていることに
    気づく。



    どことなく雛人形の類を感じてしまうのは
    地方仏師の作であるから連想されることなのだろうか



    近くには曹洞宗の総持寺祖院があった



    [20110816]

    国道249号線は西側に日本海を望みながら北上することができ
    風車と海と田園風景を一度に味わうことができる
    風光明媚な場所である



    羽咋郡志賀町にある曹洞宗寺院の龍護寺を訪問した。
    先代からあとを引き継いだ若い住職が
    お盆前という忙しい時間をぬって
    本堂の奥にある薬師如来坐像を見せてくれた



    やや下膨れの顔ながら引き締まった胴回り
    八の字に曲がった口に厳しさも覗かせる

    本尊はもともと近くにある少彦名神社から伝来したという
    寺院であり能登半島に伝わる
    泰澄が信仰しその後に富山の製薬産業の原点にもなったといわれる
    石動寺信仰の一つの形であると考える



    この少彦名神社は地元の人から“やってら”【八つの寺】と言われるとされ
    今も残る神仏習合の名残りを感じさせてくれる

    土砂の中から救出されたこの大日如来はこの地域では竜神として伝わっている


    このあと会う友人がこの龍護寺と
    深い縁があることを知り思わぬ出逢いとなった



    石川県HPより
    かつて酒見の少彦名神社の本地仏と伝えられていたが、明治初年(1868)の神仏分離の時に龍護寺に移された。
    伝存する数体のなかで最も保存状態の良好であるのが、この薬師如来坐像である。
    他の如来・菩薩・天部像は、朽損が著しいが、一木造と背刳の構造を知るための参考品として、
    このうちの4体が金沢大学教育学部へ寄贈されている。

    構造は、一木背刳、添木式、彫眼、両手後補、白毫は水晶で八角。膝と両手を矧ぎ合わせ、
    背中から中を刳り抜いた一木造の坐像である。全体に穏やかな
    平安後期に近い作風があらわれてはいるが、まだ重々しい感じが漂うところがあるので、
    平安中期の作品と推定される。破損も少なく保存がよい。

    こうした背刳技法を用いる像は古くて、県内でも数少ない遺品といえる。
    胎内には、宝永3年(1706)9月に能登所口(現在の七尾)の中川吉右衛門良秋修理の墨書銘がある。
    昭和60年「石川の文化財」より



    [20110810]












    [20110810]


    ※人によっては心を痛めてしまう内容が含まれています※







    棚田からは約30km、40分程度の道のりで
    陸前高田市に到着した


    黒石寺の住職からは
    車のパンクに気をつけたほうがいいと言われていたので
    津波被害の直前の空き地に車を止めて歩いた







    海から遠く離れたこの地でも
    海水の臭いがただよってくる


    そして目の前には巨大なタンクのようなものが
    道の脇に転がっていた



    歩いて観える景色は広大なサラ地になっていて
    そのサラ地の向こうでは大きな重機が
    大きな音をたてて砂埃を巻き上げながら
    スクラップを山積みにしていた






    車を止めた目の前に
    ぐちゃぐちゃになった車が並んでいた
    車のスクラップ工場などは見たことがあったが
    スクラップ工場ではない車両も見受けられる



    陸前高田市内は“一般車両通行止め”の看板が
    見受けられほとんどがパトカーか
    スクラップ撤去のための車両が通行していた



    そして交差点のカドに簡素なテントが立っていて
    メディアのカメラが並んでいた、
    おそらくメディアの拠点になっているのだと思う


    広大のサラ地にはいくつかの建物が立っている
    ただそのほとんどが4階付近までぼろぼろになっていた
    逆にぼろぼろに残っていない建物は
    すべて流されてしまったのかもしれない





    一際目についたのが
    マイヤ陸前高田店







    おそらく街一番のスーパーだったのだろうが
    首を大きく見上げる高さ20m付近まで津波が
    襲来していたことがはっきりと分かる


    ゲーム機やらノートPCなど
    普段路上に落ちているハズのないものが散乱している





    街のはずれにある階段



    これを登れた人
    登れなかった人


    この細い階段が生死を分けた



    津波襲来時刻で止まったままの時間がそこにあった




    今できることは
    ただただ
    手をあわせるしかなかった



    [20110808]

    実家の栃木県にて
    目覚めたのは午前4時くらいだったと思う

    ガソリンスタンドで給油をしていると
    背中の空の色が紫の絵の具を垂らしたかのように
    変化していることに気づいて思わずシャッターを切った



    東北道を途中途中で休みながら北上
    北上川流域には北海道のような景色が広がっていた




    黒石寺に到着



    もともと電話で拝観を願い出ておったのだが
    境内を見渡すと住職がすでに薬師堂で前客を案内されていたところだった



    黒石寺の狛犬は奥州市と盛岡市の伝統工芸品である
    “南部鉄器”で作られているが
    どことなく四天王のように極端に顔が小さく、胴が長くなっている

    これは何か関連するのか?!と住職に聞いたけれど
    とくに意識してつくったワケではないらしい



    本堂である薬師堂で東北の代表的彫刻の
    四天王立像を拝した



    丸く彫り出した彫眼
    細身かつ小顔に作られている



    身体の緊張感は神像とも近しいと感じ
    住職に対してその旨を伺うと
    確かにそのような神社があり
    国家的な規模を誇っていたのだそうだが
    現在は大変見窄らしい
    様相になってしまったのだそうだ

    黒石寺のHPより

     延暦21年(802)、征夷大将軍坂上田村麻呂は、鎮守府胆沢城を築き、
    城内に鎮守府八幡宮神社、城輪(きのわ)に石手堰(いわでい)神社を官寺として建立、
    当山薬師寺はその神宮寺的な存在となった。

    と、あるので神社との結びつきが
    このような像を生んだと考えるのもそう遠くはないのかもしれない



    中央の日光月光は
    腰の捻りは左右対称であるものの
    手の形は同じ方をあげている

    なだらかな衣紋から藤原に入ってからのものであろう



    黒石寺といえば蘇民祭が有名であり、そこに概要を記載します

    ・参加者である男子は祭の1週間前から精進潔斎に務めなければならず、
     肉・魚・ニラやニンニクのような臭いの強い食物、
     或いはそれらを調理した火を通した食物を口にすることが禁じられる。
    ・午後10時に鳴らされる梵鐘の音を合図に祭が始まる。浄飯米(おはんねり)を
     持った祈願者の男女が水垢離(みずごり)をした後
     「ジャッソー、ジョヤサ」(邪(ジャ)を正(ソ)すの略)と掛け声を発しながら
     本堂を三巡し、五穀豊穣を始めとする幸福を祈願する。

    ・午後11時30分より、全裸に下帯のみを身に付けた男たちが
     行列を為して福物の柴燈木(ひたき)と呼ばれる松明を
     掲げながら行進。午前2時、本堂で数え7歳の男児2人が扮する
     鬼子が本堂に入り福物の餅を境内にまいた後、再び境内に戻る。

    ・午前5時、鬼子が本堂に再び入った後「袋出し」の男5~6名が「蘇民袋」と呼ばれる麻袋を抱えて現れる。
     全裸の親方が小刀で蘇民袋を切り裂き、福物の小間木(こまき)を境内の
     男女が拾う一方で柴燈木登りに参加した男たちは引き裂かれた蘇民袋を激しく奪い合う。
     最終的に、蘇民袋の首にいちばん近い部分を持っていた者が
     その年の取主(とりぬし)となり、その年は東西どちらの土地が豊作となるかが決まる。

    黒石寺の住職とはここに書くことができない様々な話をし
    とても楽しい時間を過ごさせていただいた

    震災においての黒石寺の被害は
    極めて軽微だったようで特に仏像に関しては
    一部の破損を除いて目立った被害というのは免れた

    気をつけていってらっしゃい!という
    住職の明るい声に背中を押されて
    いい気持ちで出発することができた


    黒石寺をあとにして
    となりの正法寺を約7年ぶりに訪問すると
    当時修理中であった重要文化財の本堂屋根の
    改修が完了しており、素晴らしい景色が広がっていた



    この正法寺ももともとは黒石寺と同じ境内にあり
    同じ宗派の流れを汲む寺院であった可能性もあるのだという

    以前訪問したときに比べて一関の世界遺産登録のせいなのか
    わからないが人は増えていたように感じた

    矢吹の棚田で
    吹き抜ける心地良い風を感じ
    暫くその場に立ち止まっていた







    [20110802]

























































    楽しすぎた!!








    ジャパンスネークセンター→岩崎屋(太田焼きそば)→珍宝館→命と性のミュージアム→銀映(ストリップ)

    足尾銅山→食堂すゞき→鬼怒川秘宝殿→性神の館→早乙女温泉→一品香





    [20110802]

    新潟県十日町市 越後第十番札所 長徳寺
    “千手観音”という尊像名で親しまれている



    伝説では坂上田村麻呂が東北遠征の際の
    祈願寺として創建したという伝承が残る



    山門には
    市指定文化財の仁王が
    鎮座する



    憤怒相というよりも威嚇の造形でありながらも
    どこかクスっと笑ってしまう愛らしさを持っている

    吽像はじゃんけんのグーとパーの
    形を成しており地域の子供たちにも
    親しまれたことが想像された





    十日町は毎年必ず訪問しており
    宿泊したJames Turrellの光の館では
    光めいっぱい浴びることのできる
    高台のうえに立っており

    高床式の建築を
    吹き抜ける風を体中で受け止めて
    清々しい気持ちを感じた



    同じ日に宿泊した客からは
    ケーキをプレゼントされた



    この十日町はつい最近、かつてないほどの
    豪雨を記録したのだが、だいじょうぶだったろうか

    来週訪問予定なので確認していきたい

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    迦楼馬 (03/27)
    こんばんわ、お疲れ様でした。
    いつの日か関西方面での開催を五劫思惟の想いで待っていますね(笑)

    村石太い&しなもんてぃー (02/16)
    孔雀明王 仏像 愛知県で 検索中です。
    時折 孔雀明王の真言を 寝ているとき 唱えています。
    名古屋に 孔雀明王が ご安置 されている寺社は ないかなぁ
    宗教研

    こばりん (01/13)
    輪島を旅したとき立ち寄りました。素晴らしい仏像でした。

    yoshiki (12/23)
    不空さん

    神像もたせてもらえるんですかw
    安産寺年明け御礼参りをさせてもらう予定です。
    ことし一年お世話になりました。

    不空 (12/17)
    正覚院 → 正覚寺

    不空 (12/17)
    安産寺が一番というのは、今年を表してるね! それにしてもたくさん相変わらず行ってるね!だめだよ、地蔵尊に怒られるよ(笑) 山形のは、開けてくれて良かったですね、巨

    株取引の流れ (11/20)
    とても魅力的な記事でした!!
    また遊びに来ます!!
    ありがとうございます。。

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