天竜川(てんりゅうがわ)は長野県から愛知県、静岡県を経て太平洋へ注ぐ天竜川水系の本流で、一級河川。流路延長は213km(日本全国9位)、流域面積は5,090km?(日本全国12位)。諏訪湖の唯一の出口である長野県岡谷市の釜口水門を源流とする。長野県上伊那郡辰野町から始まる伊那谷を形成し、一部愛知県をかすめ、静岡県へ抜ける。浜松市天竜区二俣町鹿島で平野部に出、浜松市と磐田市との境を成しつつ遠州灘に注ぐ。 流域は急峻な地形のため、古くから「暴れ川」「暴れ天竜」として知られ、多数のダムが存在する。 江戸時代、江戸の建築用木材が流域の山林で伐採され、天竜川を筏で下って届けられた。
○極楽寺(国見山廃寺跡) 今から1,000年以上も前の平安時代中頃に栄えた山岳寺院で、山中 には、お堂や塔の跡が残っています。伝承によれば、700を超える堂塔、36の僧坊からなる一大寺院であったといいます。また「定額寺【じょうがく じ】(国営の寺に準ずる地位の私営の寺)」として歴史書にみえる「陸奥国の極楽寺」ではないかとも言われています。国見山廃寺は、平泉が繁栄を迎える 200年以上前に、北上盆地の中心的な寺院だったとみられます。○国見山(国見山大悲閣展望台・国見山胎内くぐり) 国見山大悲閣展望台は、標高244mの国見山山頂にある展望台です。悠々と流れる北上川を見下ろし、その向こうに広がる北上の街並と、背景に横たわる奥羽山脈など雄大な風景が広がります。 また、展望台の少し下には「胎内くぐり」と呼ばれる巨石があります。胎内くぐりとは、山岳や霊地の狭い洞窟や割れ目を通り抜けて肉体と魂を浄化し、新たに 生まれ変わるという修行の場です。平安時代の極楽寺の僧侶や修験者たちにとって、この胎内くぐりは大事な修業だったわけです。
水保観音堂の創建は大同元年(806)に弘法大師空海が開山し、坂上田村麻呂が草創したといわれています。日吉神社とは神仏混合で最盛期には吉祥院の庇護のもと七堂伽藍を備た大寺院でした。周囲に大きな影響力を持っていましたが明治時代初頭に発令された神仏分離令により寺院が配され日吉神社と観音堂だけが残され、現在は宝伝寺の境外仏堂となり周囲の信者によって管理されています。特に本尊である十一面観音は身をもって集落の火災を防いだという伝説が残っていて火伏の観音さまとして信仰の対象となっています。観音堂には棟札が残されていて明和5年(1768)に建てられ、棟梁が倉若七右衛門、脇棟梁が宮原与右衛門、下役が小杉久右衛門だったことがわかっています。5間四方の寄棟造り、元茅葺(現、金属板葺き)で中世の密教寺院建築の特徴を残し地域に残る修験道場の遺構としても貴重な存在です。寺宝には大正12年に国重要文化財に指定された「木造十一面観音立像」(平安時代中期~後期の作と推定、桜材の一木造、頭部の天冠台には様々な表情をした十一面が墨書、像高1.548m、鉈彫り、33年に一度の開帳)や男神像(2躯、室町時代作と推定、像高27㎝、23.5㎝)や鋳銅製鰐口(貞享3年作、鋳師:高田土肥藤右衛門藤原朝臣家次、施主:糸魚川高野清右衛門季林敬白)などがあります。又、観音堂には鎌倉時代に佐渡に流され本間一族に惨殺された日野資朝の子供阿新丸が観音堂の霊力を受け父の敵を討ち果たし父の遺骨を境内に埋葬したという伝説があり資朝の墓もあります。
wikipedia概要寺伝では神亀2年(725年)、行基(ぎょうき)の開基と伝える。本尊は大岩壁面に刻まれた、磨崖仏の不動明王像で国の重要文化財に指定されている。岩壁に刻まれた磨崖仏に覆いをかける形で本堂が建造されているため、磨崖仏の保存状態は良い。三重塔と山門は町指定文化財。参道には名物のそうめんを売る店が多く並び、賑わっている。また、一切衆生の六欲・根本煩悩を断つとされる、6つの龍頭から流れ落ちる六本瀧(ろっぽんだき)は、寒修行の場でもあり、毎年大寒には多くの人が参詣し、滝に打たれている。「劔岳 点の記」の映画撮影の際には撮影提供を行った。重要文化財大岩日石寺磨崖仏不動明王二童子像(当寺の本尊)、阿弥陀如来像、僧形像の5体を凝灰岩の巨岩に半肉彫りで彫り出した磨崖仏。国の重要文化財に指定されている。不動明王像の像高は約2.8メートル。左右に矜羯羅童子(こんがらどうじ)像、制咤迦童子(せいたかどうじ)像、阿弥陀如来坐像、僧形坐像(伝・行基像)が半肉彫りで彫り出されている。不動明王二童子像は平安時代後期の作で、阿弥陀如来坐像、僧形坐像は後年になって追刻されたものと思われる。建武2年(1335年)、不動堂が大風で倒壊した際に大破し、康永元年(1342年)に修理されているが、各像とも根幹部分は造像当時のまま。室町時代に上杉勢の兵火に遭い、また1967年(昭和42年)に本堂が火事に遭うが、磨崖仏はほとんど損傷をうけることなく今日まで残っている。