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    [20111122]

    倉敷市から岡山自動車道を北上し
    山間の町“落合”で高速道路を降りた

    来た道を戻るように国道のバイパスを通っていくと
    ナビは旧道に逸れるようにアナウンスが流れる
    “ほんとかな?!”と疑問を感じながら曲って
    バイパスよりも狭い道を進んでいくと先ほどのバイパスに
    合流した。“なんだ遠回りだったじゃないか”

    バイパスをそのまま合流し鹿田方面に
    曲がる道を通っていくと道から更に逸れたあたりに
    目的地である勇山寺(いざやまじ)が現れた



    真言宗高野山派の寺院であり
    本尊薬師如来を祀っている


    薬師如来は三十三年に一度の秘仏であり
    次回平成45年に開帳するということで
    それに期待をするのだけれど、本尊の脇に
    国重要文化財に指定されている不動三尊が
    祀られている

    中央の不動明王は坐像ながら像高180cmという
    見事な造形であり京都東福寺の塔頭である
    同聚院の不動明王と同じように圧倒される



    不動明王に脇侍として構える矜羯羅童子は
    この寺院に訪問したいと思うきっかけとなった
    仏像であり、くっと左手を捻ったポーズが
    なんとも可愛らしくいつもは元気な童子として表現されることの
    多い矜羯羅童子だがここの像はどことなくおばさんの雰囲気を
    醸しだしている






    地元の檀家の方々が我々の訪問を快く迎えてくださり
    暫しの間、本堂の脇でお茶を飲みながら談笑させていただいた。

    ご住職はこの日急遽予定が入ってしまいお会いすることが
    できなかったのだがなんと22歳のご住職とのこと

    自分もまわりの人からは若いと言われるが
    自分よりも若いご住職にお会いしたことはなかった

    是非次回の訪問では同じ若い住職から色々
    お話を聞かせていただきたいなぁ




    [真庭市HPより]
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    言い伝えによれば神亀3年、西暦726年、行基菩薩(ぎょうきぼさつ)が寺を開き、
    薬師如来像を彫ったと伝えられていますが、様式からは室町時代の作と言われています。
    またその後、弘仁6年815年、弘法大師により不動明王、
    矜羯羅(こんがら)童子・制?迦(せいたか)童子の三尊が
    厄難除けのため、彫られたと伝えられます。様式上は平安時代の作と言われ、
    いずれも国指定の重要文化財となっています。
    建久元年、1190年には、源頼朝の命により梶原景時が再建し、
    天神山(てんじんざん)を大寺山(おおてらさん)と改め、
    天領百石を寄付したと言われます。現在の勇山寺本堂は和様折衷の建物で、
    江戸初期寛文頃の建築と推定され、彫刻技術の美といい、
    仏寺建築としては郡内屈指の本堂です。
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    [20111118]

    島根県 温泉津温泉街(ゆのつおんせん)を訪問した














    朝靄の中、朝6時にはすでに温泉は始まっていた





    [20111109]

    岡山県倉敷市には大原美術館の美術品や蔵造りの風情がとても好きで

    何度か訪問している、その当時はチボリ公園も運営していたんだけど

     

    安く美味い焼鳥屋も市街地にいくつかあって

    ここで岡山県の地酒を飲みながら焼き鳥を食らうというのが

    倉敷市を訪問する一つの目的となっていた

     

    今回、倉敷市に初めて仏像を目的として

    訪問することになった

     

     

    場所は倉敷ICから北西2kmほどにある安養寺

     

     

    到着するとまさに極楽浄土ジオラマ世界に

    迷い込んでしまったのではと思える光景にいくつも出会う

     

     

    寺の前には池が広がり大仏級の大きさを誇る

    半跏の毘沙門天がその池を見下ろし

    階段を登った先には多宝塔が聳えるといった

    そのスケールの大きさに圧倒されていたのだった

     

     

    しかしながら威圧されたのは伽藍だけではなく

    境内にある収蔵庫に入り、腰は完全に抜けた

     

     

    立ちはだかったのは

    毘沙門天がそのお堂の中を埋め尽くしていた



     


    薄暗かったためその造形の全てを見ることはできなかったのだが

    だんだん目が慣れて浮かび上がってくる毘沙門天は

    そのほとんどが平安時代に創られたものであろう像であった

     

     

    [貞観時代]など歴史を遡る像も多く存在し

    スペースを埋めるという意味では

    京都三十三間堂にも似た光景である



     

     

    しかしよくぞこれだけの毘沙門天が残されたものだ

     

    これほどの量になると一貫した

    毘沙門天信仰がこの地にはあったはずだ

     

     

    深い深い念にただひたすらに圧倒されたのだった

     

     

     

    安養寺 (倉敷市) - Wikipedia

     

    安養寺は奈良時代、報恩大師により真言宗の寺として開山。

    朝原千坊の中院として13世紀の室町時代には浅原の谷一帯に

    『浅原寺』と総称される寺院が立ち並んでいたとされている。

     

    池田家文庫等によると安養寺は享保2年(1717年)以前は

    現在地より220m南、倉敷市街よりにあり、

    客殿や庫裏を備えた朝原寺の本坊であったことが判っている。

     

    また、源平盛衰記では鹿ケ谷の変で治承元年(1177年)、

    備前国に追放された藤原成親が備中国安養寺に出家・受戒したと書かれている。

     

     

    安養寺は倉敷と総社を結ぶ浅原峠にあり、

    寺社地正面には天王池と呼ばれる池に朱色の浮見堂が造られている。

     

    参道の石段にある楼門の上に大きな毘沙門天が乗り、

    その下には船の大きな碇が置かれている。

     

    境内に上がると毘沙門堂に高さ約26mの

    多宝塔、羅教堂、鐘楼、茶室などが配置されている。

     

    本殿である毘沙門堂には、金色の毘沙門天本尊が祀られ、

    成願堂には平安時代に造営された経塚の出土品で、

    釈迦誕生仏像・瓦経・等身大の毘沙門天像などの文化財が保存され、

    仏像は無料で公開されている。

     

    約11tの重量がある梵鐘は中国四国一の大きさとされている。

    また、神仏習合の寺であるため境内には鳥居が三箇所あり、七福神の銅像も配置されている。





    [20111107]

    群馬栃木の北関東珍宝ツアーに続いて
    2011年11月5日、6日の二日間
    珍宝ツアー第二回の舞台は伊豆























































    ■一日目
    まぼろし博物館⇒とんがり帽子⇒ねこの博物館⇒伊豆アンディランド⇒黒根岩風呂⇒ピンク座




































    ■二日目
    明徳寺⇒伊豆極楽苑⇒魚重食堂⇒駿河湾深海生物館⇒熱海城⇒熱海秘宝館


    伊豆はやはりレジャー施設が多いということもあって
    かなり盛りだくさんの内容で楽しかった


    みんなおつかれさま!



    [20111104]

    島根県への訪問はかれこは4回目ほどになるのだけど
    日本海側に突き出た美保関町へ訪問は初めてだ

     


    “ゲゲゲの鬼太郎”の生みの親 水木しげるの出生地である
    鳥取県境港市とは江島大橋で隣接しており
    江島大橋の高さはこの地が多くの船が
    通る貿易船の要所である証なのだろうと考えながら橋を渡る


     

     
    美保関町の漁港に車を止め、漁村の小路を
    奥まで進んでいくと道の突き当りに仏谷寺が現れた


     


    現在は浄土宗であるが以前は天台系の寺院であったことを彷彿とさせる
    仏像群が“大日堂”という大日如来がいない収蔵庫に納められている


     
    美術学上の分類では“菩薩立像”とあるが
    本尊中央の阿弥陀如来の両脇には向かって右側に
    日光菩薩、月光菩薩






    左側には虚空蔵菩薩と聖観音菩薩と伝来している




     
    そして中央には薬師如来




    どの像もこの仏谷寺の像を代表するような
    個性的な顔立ちをしており
    中でも自分の心に響いた像は
    “虚空蔵菩薩”“日光菩薩”の二体の像だった

     






    ※ものすごい腰回りの肉付き※



    虚空蔵菩薩は一木たる重厚感が下半身に漲っていながらも
    密教像たる呪術的な衣紋に魅了される




    日光菩薩は厚い上唇に大きな鼻が印象的であり
    スラリとした長身に細く垂れる右手は百済観音のようだ





    同じ仏師の作ではないだろうが
    佛の一体一体が
    自由に広がるイメージを持って
    製作されたことが感じることができる




    帰りは来た小道を戻る
     


    漁港へ向かいながら漁港に点在する
    路面店で日干しのイカを購入した
    独特の醤油を使っているのだろうか
    これがまたとても美味かった

     

     

    仏谷寺 Yahoo!百科事典

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    島根県松江市美保関(みほのせき)町にある浄土宗の寺。
    竜海山三明院(さんみょういん)と号する。本尊阿弥陀如来(あみだにょらい)。
    聖徳太子の開基、空海の開山と伝えるが、寺伝では行基を開基とする。

     

    伝説によると、行基がこの地を巡錫(じゅんしゃく)中に海中に三つの怪火が現れ、
    土民は「三火(みほ)」といって恐れたので、これを封じるために仏像を刻み建立されたともいう。
    後鳥羽院(ごとばいん)と後醍醐(ごだいご)天皇が隠岐(おき)に遷幸されたときの
    仮行在所(あんざいしょ)とされたという。

     

    八百屋(やおや)お七の恋人、小姓の吉三(きちさ)はお七の処刑後、各地の寺にお七地蔵を立てたが、
    この地が最後の納所となった。吉三地蔵とその墓がある。

     

    薬師如来、日光・月光菩薩(がっこうぼさつ)、聖観音(しょうかんのん)菩薩、
    虚空蔵(こくうぞう)菩薩(以上すべて国重要文化財)の平安初期の5体の仏像がある。
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    [20111103]

    赤穂線 西片上駅で知り合いと待ち合わせをし走ってきた
    国道二号線を少し戻って200m弱の小高い山の辺を
    グルりと瀬戸内海側に回る



    [浦伊部]という地域を見下ろす山の中腹にある
    妙圀寺を訪問した。





    この寺は永長元年(1096)の開基であり、
    当初は天台宗寺院だったものの
    室町時代の始め頃に日蓮宗に転宗している



    戦国時代には諸堂のほとんどが消失し、
    本堂は260年前に新設復興し、備前藩主池田光政から寺領を与えられた。



    本堂の脇に小さな収蔵庫を構え
    明治30年国指定された釈迦如来が坐する






    康俊作(康俊は慶派仏師を推定されている)とあり
    この時代の仏像としては珍しく
    どっしりと力強いおおらかさを持つ像だ



    眼球がほのかに紅くおおらかさだけではない
    対峙する者を説き伏せる厳しさを表情から感じることができた。




    住職には大変丁寧に迎えていただき
    庫裏でお茶をいただいた
    忙しい旅の中でほっとする時間与えてもらった





    池田 光政wikipedia

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    池田 光政(いけだ みつまさ)は、
    播磨姫路藩第3代藩主、因幡鳥取藩主、備前岡山藩初代藩主。岡山藩池田家宗家3代。

    姫路藩の第2代藩主・池田利隆の長男。母は徳川幕府2代将軍・秀忠の養女で
    榊原康政の娘・鶴子。当時の岡山藩主・池田忠継(光政の叔父)が幼少のため、
    利隆は岡山城代も兼ねており、光政はそこで生まれた[1]。慶長16年(1611年)に
    江戸に赴いて秀忠に謁見し、国俊の脇差を与えられる。慶長18年(1613年)に
    祖父の池田輝政が死去したため、父と共に岡山から姫路に移った。



    同じ年に父と共に徳川家康に謁見する。このとき家康は5歳の光政を膝
    下近くにまで召して髪をかきなでながら「三左衛門の孫よ。早く立派に成長されよ」と言葉をかけた。
    そして脇差を与えたが、光政は家康の前で脇差をするりと抜き、
    じっと見つめながら「これは本物じゃ」と語った。家康は光政の態度に
    笑いながら「危ない、危ない」と言って自ら鞘に収めた。



    そして光政が退出した後、「眼光の凄まじさ、唯人ならず」と感嘆したという[2]。
    元和2年(1616年)6月13日に父・利隆が死去した。



    このため6月14日に幕府より家督相続を許され[3]、
    跡を継いで42万石の姫路藩主となる。

    しかし元和3年(1617年)3月6日、幼少を理由に因幡鳥取藩32万5000石に減転封となった[4]。
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    [20111103]

    岡山県のB級グルメ『かきおこ』

     

    旅の途中に訪ねた

     

    かきおことは『牡蠣のお好み焼き』で

    岡山県の日生の漁港付近にある

    お好み焼き屋で味わうことができる

     

    自分たちが入ったのは

    浜屋



     

    店の真ん中に大きな鉄板がドーンとあり

    真ん中で50代くらいのおばちゃんが

    お好み焼きをつくって

    おばちゃんを客が囲ってお好み焼きを

    頬張るというスタイルだ

     

     

    いまお好み焼き屋はテーブルごとに鉄板があって、というのが

    主流だけれども、こうやってみんなで一つの鉄板を

    囲うのは、とても懐かしい感じがした

     

     

    どでかい牡蠣がゴロゴロ入って

    おばちゃんは『牡蠣は旬ではないけれどうちのは

    旬のものを瞬間冷凍しているから美味いのよ』と

    自慢気。




    はふはふしながら湯気立つ

    店の中、都会では食べることのできない

    グルメを皆で胃袋へ収めた

     

     



    食べ終わったころには

    大粒の汗が滴り落ちていた

     

     

    海を撫でる風が涼しい

     

     

     

     

     

     

     

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    日生町(ひなせちょう)は、岡山県南東部に位置し、兵庫県と境を接していた町。

    2005年3月22日、備前市、吉永町との合併により新たに備前市となり、

    町役場は備前市役所日生総合支所となっている。

     

    瀬戸内海に面し、平地は少なく山林で占められている。

    日生諸島があり、諸島中最大で岡山県内最大の鹿久居島をはじめ、

    曽島、鶴島、有人の頭島・大多府島・鴻島などがある。

     

    日生諸島及び対岸の小豆島(大部港)へは、日生港からフェリーが出ている。

    主産業は漁業。漁港で魚介類を中心とした「五味の市」が開かれ

    県内はもとより京阪神からの客で賑わっている(火曜日定休日・祝日の場合は翌日)。

    またカキ養殖が盛んであり、カキオコとよばれる郷土料理で町おこしを行っている。

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    [20111103]

    安来市清水寺を出発し古代神話に登場する“黄泉比良坂”を脇を通り過ぎる。
    同じ安来市内広瀬町にある巌倉寺を訪問した。



    山門前に車を止め石段を登って
    庫裏を訪問するとお祖母様が鍵を持って現れた。
    “ここが本堂への近道なんです”と
    他のメンバーが先に行った道とは別の方向に案内された
    その先の石段を上がると本堂の裏側に出てきた

    本堂の中にはつるし飾りが並び
    中沼薬師堂の訪問を思い起こさせた



    セルフで般若心経を唱え
    本堂の厨子が開けられ出てきたのは三体の仏像。
    聖観音、帝釈天、多聞天の三仏。
    いずれの像もかつて真言宗巌倉檀寺の仏像達である。



    中でも印象的であったのが帝釈天と聖観音だった

    帝釈天は前歯がむき出しになり
    威嚇の表情なのかもしれないが地方仏師の素朴さゆえ
    微笑んでいるかのようにも見える



    かなり前のめりなポージングをしており
    しっかり後ろの聖観音をガードしている、というようにも思えた

    一方、正面の聖観音はグッと閉じた口元が頬に方に釣り上がり
    自信やあどけない表情を称えていた。やや平面的な表現だ。
    本尊の聖観音は出雲様式の典型とも言われる



    せまい厨子の中にひしめき合う三仏は
    とても仲良さそうに思えとても微笑ましかった

    あとから忙しい合間を縫って駆けつけてくれた
    住職に話で、かつてこの地域は日本の中央であり
    奈良や京都は地方であったとおっしゃっていた



    [20111102]

    赤穂浪士で有名な兵庫県赤穂市尾崎にある普門寺を訪問した
    赤穂八幡神宮から脇道を登って3分ほどのところにある尼寺である



    本堂の中央に平安前期~中期のとても大きな千手観音坐像が坐する。



    体躯や顔つき、伸びやかに表現された仏手、その全てが量感に満ちている。

    表情は目を細め微かに微笑を浮かべる。化仏は体躯や本尊面と
    比較すると小ぶりであり、あくまで本体の仏面や体躯、仏手に
    スポットを当てるかのようなアプローチが伺える
















    量感のある平安時代前期~中期の千手観音としては

    香川県屋島寺像




    大阪府高槻市安岡寺像などが有名である




    この三尊の中ではこの普門寺像が最も大きく彫られており
    また拝観環境もすぐ近くまで近寄ることができることから
    千手観音が放つ力を間近で感じることができる




























    またこの普門寺は尼寺である

    訪問した時も檀家の女性たちが集まって
    庫裏の中で御詠歌を奏で歌っていた
    夏が秋の訪れを名残惜しんでいるかのような
    秋の空にその歌声が響きわたっていた





    大きな地図で見る



    [20111102]

    岡山県瀬戸内市 高野山真言宗千手山弘法寺本坊であり
    7世紀後半、天智天皇の勅願開祖である
    弘法大師千手観音を刻んで安置したという伝来が残る



    本堂の裏側に収蔵庫があり
    訪ねた時は岡山西大寺の大祭があるということで
    不在の住職に変わって奥様が代わりに案内してくれた

     

    現在は一般拝観は断っているそうで
    この空間にはほとんど人が入ることがないのだそうだ

     

    本尊大日如来像は藤原時代の作で
    本尊四方に阿閦、宝生、阿弥陀、不空成就で五智如来を成す

     

    ここまで五智如来を近くで拝観できる空間はそうはない
    密教佛が織り成す濃厚な空間を堪能することができた

     







    本尊は端正な顔付きをしているものの
    いわゆる藤原佛よりも身体のラインが細く
    時代は若干下るかもしれない

     

    脇侍の四体も本尊と同様の時代に制作されたのだろう

     

    毎年お練り供養が開かれ、訪問時には不在であったが
    お面かぶりならぬ、来迎する阿弥陀如来の上半身まで
    ある木製の着ぐるみのような像があるのだという

     


    遍明院の奥様が書かれた御朱印は
    女性らしい水々しい書体であった

     


     

    弘法寺 (瀬戸内市)wikipedia

    -------------------------------------------------------

    弘法寺(こうぼうじ)は岡山県瀬戸内市牛窓町に所在する寺院。

    宗派は高野山真言宗。山号は千手山(せんずさん)。

    本尊は千手観音であったが本堂の焼失により現在は遍明院が管理している。

    塔頭は遍明院と東壽院の2院が現存する。

    遍明院は山陽花の寺二十四か寺第十五番札所となっている。

     

    伝承によれば、天智天皇元年(662年)天智天皇の勅命により建立されたと言われる。

    その後、火災に遭い衰退していたが、天平年間(729年 - 749年)報恩大師が

    備前四十八ヶ寺の一つ報恩山興法寺として再建し48坊を擁したと言われている。

     

    平安時代初期の大同2年(807年)空海が方三丈の堂を建立し千手観音を安置して以後、

    千手山弘法寺と称するようになったと言われている。

     

    鎌倉時代から南北朝時代にかけて最も隆盛した。朝廷の祈願所となっており、

    当寺院には後醍醐天皇の綸旨の写しがある。

    また、観応元年/正平5年(1350年)には足利尊氏が

    足利直冬討伐のために中国地方に遠征した際に当寺院で戦勝祈願した。

    その際の足利尊氏御教書(県指定重要文化財)が現存している。

     

    桃山時代には当時の領主であった宇喜多秀家から寺領として110石の寄進を受けた。

    江戸時代になっても岡山藩主池田家の庇護を受けた。寛文5年(1665年)

    池田光政が寺院の淘汰を行った際に、天台宗から真言宗に改宗された。

    宝暦8年(1758年)の記録では15院3坊の塔頭があった。明治8年(1875年)に塔頭は4院に合併された。

    本堂の周囲は度々落雷に見舞われ焼亡を繰り返した。

     

    昭和42年(1967年)本堂・普賢堂・鐘楼・多宝塔・坊舎など主要な建造物を焼失し、

    本堂の本尊厨子脇に安置されていた鎌倉時代の作といわれていた二十八部衆像も焼亡した。

    なお、本尊の千手観音は僧侶らの手によって持ち出された。

     

    常行堂・御影堂・一切経蔵・鎮守社は一段高いところにあるため類焼を免れ現存している。

    昭和42年の火災で塔頭の1つ善集院も類焼し廃院となり、現在の塔頭は2院のみとなっている。

    -------------------------------------------------------

    [20111101]

    22時に横浜を出発したバスは翌朝7時に予定通り岡山駅に到着した


    岡山駅の北東部にある
    法界院では天平年間(七二九年)報恩大師が開山し
    本尊聖観音は33年に1度の秘仏として
    境内の一角に収蔵庫が建設され祀られている



    収蔵庫と本堂は本尊が厨子を行ったり来たりできるように
    結縁の紐が本堂の地下を通って伸びていた




    そして本尊と結ばれた本堂の厨子両脇に脇侍として
    持国天と毘沙門天が祀られている





    持国天および増長天は柔和な表情をしており
    “優しそうなガードマンですね”とつぶやくと
    奥様はくすっと笑っていた





    本尊は今回は縁がなく拝することができなかったが
    脇侍と作風が似ているという



    ※パネル写真にて本尊聖観音 
    33年に1度の秘仏


    京都出身の奥様が案内していただき現在はその
    息子さんが住職を勤められているというのだが
    訪問したその日は中国三十三観音霊場の大祭で韓国に出かけていらっしゃった






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    迦楼馬 (03/27)
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    孔雀明王 仏像 愛知県で 検索中です。
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    安産寺が一番というのは、今年を表してるね! それにしてもたくさん相変わらず行ってるね!だめだよ、地蔵尊に怒られるよ(笑) 山形のは、開けてくれて良かったですね、巨

    株取引の流れ (11/20)
    とても魅力的な記事でした!!
    また遊びに来ます!!
    ありがとうございます。。

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