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然るを訊く
[20111103]

赤穂線 西片上駅で知り合いと待ち合わせをし走ってきた
国道二号線を少し戻って200m弱の小高い山の辺を
グルりと瀬戸内海側に回る



[浦伊部]という地域を見下ろす山の中腹にある
妙圀寺を訪問した。





この寺は永長元年(1096)の開基であり、
当初は天台宗寺院だったものの
室町時代の始め頃に日蓮宗に転宗している



戦国時代には諸堂のほとんどが消失し、
本堂は260年前に新設復興し、備前藩主池田光政から寺領を与えられた。



本堂の脇に小さな収蔵庫を構え
明治30年国指定された釈迦如来が坐する






康俊作(康俊は慶派仏師を推定されている)とあり
この時代の仏像としては珍しく
どっしりと力強いおおらかさを持つ像だ



眼球がほのかに紅くおおらかさだけではない
対峙する者を説き伏せる厳しさを表情から感じることができた。




住職には大変丁寧に迎えていただき
庫裏でお茶をいただいた
忙しい旅の中でほっとする時間与えてもらった





池田 光政wikipedia

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池田 光政(いけだ みつまさ)は、
播磨姫路藩第3代藩主、因幡鳥取藩主、備前岡山藩初代藩主。岡山藩池田家宗家3代。

姫路藩の第2代藩主・池田利隆の長男。母は徳川幕府2代将軍・秀忠の養女で
榊原康政の娘・鶴子。当時の岡山藩主・池田忠継(光政の叔父)が幼少のため、
利隆は岡山城代も兼ねており、光政はそこで生まれた[1]。慶長16年(1611年)に
江戸に赴いて秀忠に謁見し、国俊の脇差を与えられる。慶長18年(1613年)に
祖父の池田輝政が死去したため、父と共に岡山から姫路に移った。



同じ年に父と共に徳川家康に謁見する。このとき家康は5歳の光政を膝
下近くにまで召して髪をかきなでながら「三左衛門の孫よ。早く立派に成長されよ」と言葉をかけた。
そして脇差を与えたが、光政は家康の前で脇差をするりと抜き、
じっと見つめながら「これは本物じゃ」と語った。家康は光政の態度に
笑いながら「危ない、危ない」と言って自ら鞘に収めた。



そして光政が退出した後、「眼光の凄まじさ、唯人ならず」と感嘆したという[2]。
元和2年(1616年)6月13日に父・利隆が死去した。



このため6月14日に幕府より家督相続を許され[3]、
跡を継いで42万石の姫路藩主となる。

しかし元和3年(1617年)3月6日、幼少を理由に因幡鳥取藩32万5000石に減転封となった[4]。
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迦楼馬 (03/27)
こんばんわ、お疲れ様でした。
いつの日か関西方面での開催を五劫思惟の想いで待っていますね(笑)

村石太い&しなもんてぃー (02/16)
孔雀明王 仏像 愛知県で 検索中です。
時折 孔雀明王の真言を 寝ているとき 唱えています。
名古屋に 孔雀明王が ご安置 されている寺社は ないかなぁ
宗教研

こばりん (01/13)
輪島を旅したとき立ち寄りました。素晴らしい仏像でした。

yoshiki (12/23)
不空さん

神像もたせてもらえるんですかw
安産寺年明け御礼参りをさせてもらう予定です。
ことし一年お世話になりました。

不空 (12/17)
正覚院 → 正覚寺

不空 (12/17)
安産寺が一番というのは、今年を表してるね! それにしてもたくさん相変わらず行ってるね!だめだよ、地蔵尊に怒られるよ(笑) 山形のは、開けてくれて良かったですね、巨

株取引の流れ (11/20)
とても魅力的な記事でした!!
また遊びに来ます!!
ありがとうございます。。

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